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近代文学5

太宰治『待つ』

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夕暮れの街並み

太宰治(1909-1948)『待つ』は第二次大戦中の昭和一七年(1942)一月に執筆と推定される小説。当時の文章の書き方について、以下にみてみましょう。

原文(一部抜粋)

一體、私は、誰を待つてゐるのだらう。

はつきりした形のものは何も無い。ただ、もやもやしてゐる。けれども、私は待つてゐる。大戰争がはじまつてからは、每日、每日、お買ひ物の歸りにはに立ち寄り、この冷たいベンチに腰をかけて、待つてゐる。

誰か、ひとり、笑つて私に聲を掛ける。おお、こはい。ああ、困る。私の待つてゐるのは、あなたではない。

それでは一體、私は誰を待つてゐるのだらう。旦那さま。ちがふ。戀人。ちがひます。お友達。いやだ。お金。まさか。亡靈。おお、いやだ。

もつとなごやかな、ぱつと明るい、素晴らしいもの。なんだか、わからない。たとへばのやうなもの。いや、ちがふ。靑葉。五月。麥畑を流れる淸水。やつぱり、ちがふ。ああ、けれども私は待つてゐるのです。[1]

解説

異体字

  1. :体(タイ)/葛西『子をつれて』にて既出の異体字
  2. 戰:戦(セン)/戦は戰の略体。戈(武器)+單(武器)。武器を用いてたたかう意。
  3. :帰(かえる)/帰は歸の略体。ほうきをもち本来あるべき位置につく、とつぐの意。のちに歩いて戻る、かえる意を表わすようになったと言われる。
  4. :駅(エキ)/駅は驛の略体。馬+睪(次々につながる)。代えを用意しておく宿場、えきの意味。
  5. :声(こえ)/漱石『こゝろ』にて既出の異体字。
  6. :恋(こい)/前掲書にて既出の異体字。
  7. :霊(レイ)/霊は靈の略体。霊+霝(あまごいをする)。雨ごいをするみこの意。転じて、かみ・こうごうしい意。
  8. :麦(むぎ)/麥は、を左右に実らせた植物の象形と、の象形を結合したもの。足を加える意味は、天また遠方からもたされた意から。[2]

歴史的仮名遣い

「私の待つてゐるのは、あなたではない。それでは一體、私は誰を待つてゐるのだらう。」

小さい「っ」は、歴史的仮名遣いでは大きい「つ」で書きます。「」は「イ」と発音し、現代仮名遣いでは「い」と書きます。「だらう」は、現代と同じく「ダロー」と発音。「私は」と書いて「ワタシワ」と読む法則と同じです。

概要

今回取り上げた太宰治『待つ』は、主人公である二十(はたち)の娘が駅で何かを、誰かを、待っているというだけのとても短い小説。

しかし読んだ後は、描かれている駅の風景と主人公の気持ちが映像として浮かび上がるような、何とも言えない余韻が残る作品です。ただ一点、上記原文の、待っているものの否定の中で「お金。まさか。」って…葛西善蔵もこの部分は多分驚くだらう。

補註

  1. 太宰治全集5(筑摩全集類聚)』(筑摩書房 、1971年)より引用。
  2. 林大(監修)『現代漢語例解辞典』(小学館、1996年 )参照。

近代文学

はじめに漱石葛西賢治/太宰/安吾高見

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