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尾張御鷹場 御預り村と御案内たち

尾張御鷹場御預り村と御案内たち
「尾張藩の鷹場について」(槇本晶子、『多摩のあゆみ 第50号』多摩中央信用金庫、1988年)を元に作成

御預り村

御鷹場御預り御案内尾張藩鷹場は、地域ブロックに分けられて管理され、各ブロックを代表するのが御鷹場御預り御案内(以下、御案内と言う)です。

御案内は、いずれも在地有力農民から召し出されています。しかし宝暦三年の時点で六人だった御案内は、図に天保期から十人~十一人の組織に編成されました。この内、元禄以前にも御案内を務めていた家は村野と高橋のみで後は新しい面々でです。

御案内のおよそ二倍の人数の増加については、槇本晶子氏(参考文献)によれば、百十八カ村にも及ぶ村をたった六人の御案内で取り締まるが困難だったのではないかと見解を述べています。

図の白丸は御案内の居住地を示し、倉片は現所沢市、新藤は現入間市、當麻(たいま)は現小平市となります。

御鷹場御預り御案内

御案内の職責は多岐にわたります。その主な仕事は、鷹場法度の読み聞かせ、案山子・家作・普請願の許可、役人見廻りの送迎、鷹狩の際の案内、鷹場内の検分などです。

御案内は個々に活動しているというよりは、常に連絡を取り合い、相談しながら尾張鷹場全体を守っています。リーダー(年番)もあって、これは一年ごとの輪番制。会合場所はどこのお宅だと思いますか。

常に倉片家、なんですね(笑)。理由はわかりませんが、所沢は当時から商業が発達していて交通の便がよく、尾張鷹場の真ん中に位置しているので都合がよかったのではと推測されます。

  

参考文献

  • 槇本晶子『尾州藩の鷹場について「多摩のあゆみ第50号」 』(多摩中央信用金庫、1988年)
  • 本間清利『御鷹場』(埼玉新聞社、1981年)