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百姓往来2

仁徳天皇の仁政

江戸時代の往来物(教科書)『百姓往来』から、民・百姓を慈しむ仁徳天皇について紐解きます。

史料

仁徳天皇の仁政_百姓往来

※無断転載禁止

解読文

左頁

高(たか)きやに 登(のぼ)りてみれば 煙(けぶ)りたつ 民(たみ)の竈(かまど)は 賑(にぎは)ひにけり

右頁 現代語訳

再板百姓往来の版木(はんぎ)は豊孝が所蔵

人皇(じんこう)十七代仁徳帝と申される方は、難波高津(大阪)に都を移された。この御君は大鷦鷯(おおさざき)の皇子と号(ごう)される。御弟皇(おんおとうとぎみ)稚郎子(わかいらつこ)と帝位の譲り合いが三年に及ぶ。されど兄皇がついに帝位に就かれる。

もとより慈しみの帝でいらっしゃれば、万民の貧苦を痛まれた。三年の間、民の課役を許され、お召し物が破れても新たに織らなかった。そのに届き、風雨時に従い五穀豊穣にして、土着の民や百姓等は喜んで、貢(みつぎ)を奉じた。徳帝のお考えはことに麗しく、高台に登られ、民家の煙が豊な様子をご覧になる。

>>原文(史料解読文)

解説

史料左側に描かれている人物は、大阪府堺市大山町にある古墳でお馴染みの仁徳天皇(にんとくてんのう)。

どのような天皇なのか、史料右下に細かく書いてあるのですが、これがかなり難読でした。叡慮(えいりょ:天子のお考え)、叡覧(えいらん:天子が御覧になること)など、聞き慣れない言葉が並んでます。史料では十七代仁徳帝としていますが、国史大辞典によると仁徳帝は十六代天皇と伝えられています。

古文書初学者の方はとりあえず、変体仮名で書かれている左上の仁徳帝の和歌(新古今和歌集)に挑戦いただければと思います。

解読文(右頁)

再板百姓往来豊孝蔵/人皇(にんわう)十七代仁徳帝(にんとくてい)と申奉(たてまつる)は、難波(なには)高津(たかつ)に都(みやこ)まし/\てげり、此御君(このおんきみ)は大鷦鷯(おほさじき)の皇子(わうし)と号(ごう)し給ふ

御弟皇(おんおとゝきみ)稚郎子(わかいらつこ)と昆弟(はらから)の御間(おんあいだ)、帝位(ていゐ)を譲(ゆづり)合ひ給ふこと三とせに及(およひ)し、されと兄皇(あにぎみ)にて坐(ます)をば、終(つひに)帝位(ていひ)を践(ふみ)給ふ

素(もと)より仁恵(にんけい)の帝(みかど)にておはしませば、万民(ばんみん)の貧苦(ひんく)をいたませ給ひ、三年(みとせ)のあいだ民(たみ)の課役(くわやく)をゆるし給ひ、御衣(きよい)藪(やぶ)るれ共、新(あらた)に織(を)らず

其徳(そのとく)天(てん)に応(をう)ぜしかば、風雨時(ふううとき)にしたかひ、五穀豊穣(ごこくふねう)にして、土民(どみん)百姓等(ひやくせいら)歓(よろこ)びて、貢(みつぎ)を献(たてまつる)りしかば、叡慮(ゑいりよ)ことにうるはしく

高台(かうたい)に登臨(のほらせ)給ひ、民家(みんか)の煙(けふり)豊(ゆたか)なるを叡覧(ゑいらん)ありて

史料情報

  • 表題:百姓往来
  • 年代:文政3/浪花禿帚子 再訂、鱗形屋孫兵衛・ 西村屋与八 板
  • 埼玉県立文書館寄託 小室家文書3384
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百姓往来

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