表
大獄対象者と内容
所属 | 名前 | 条約調印前 | 条約調印後 | 大獄 |
---|---|---|---|---|
水戸藩 | 徳川斉昭(前藩主) | 井伊直弼の無断調印を責め、謹慎 | 国元永蟄居 | |
一橋家 | 一橋慶喜(将軍候補) | 同上の罪で登城禁止 | 謹慎 | |
福井藩 | 松平慶永(春嶽、藩主) | 将軍に慶喜擁立 | 同上の罪で謹慎 | 謹慎 |
〃 | 橋本佐内(慶永家臣、藩医) | 条約阻止のため上京 | 死罪 | |
幕府 | 堀田正睦(まさよし、老中、下総佐倉藩主) | 上京するも勅許に至らず | 直弼が大老となり、失職 | 隠居 |
〃 | 岩瀬忠震(ただなり、正睦ブレーン) | ハリスと交渉 | 職禄を奪われたうえ、差控 | |
薩摩藩 | 島津斉彬(二八代当主) | 慶喜擁立を支持 | 水戸藩降勅運動 | 大獄前に帰国し、病没。 |
〃 | 西郷隆盛 | 〃 | 斉昭から命を受け入京 | 幕吏に追われた僧月照が西郷と共に入水し死去。 |
高知藩 | 山内豊信(容堂、藩主) | 〃 | 慎 | |
宇和島藩 | 伊達宗城(むねなり、藩主) | 〃 | 依願蟄居 | |
公家 | 近衛忠煕(左大臣)、鷹司輔煕(右大臣) | 上京の橋本佐内のにより一橋派に引入れられる | 水戸藩降勅運動 | 辞官 |
その他
長州藩・吉田松陰:条約調印後に萩にて攘夷を主唱。大獄により間部詮勝の要撃を計画して幽閉。江戸に送られ刑死。
解説
安政の大獄(たいごく)とは、安政五戊午年(1858)から翌年にかけて、大老井伊直弼が将軍の跡継ぎと条約調印の二大問題に反対した尊攘派に下した弾圧。大獄とは、重大な犯罪事件で多くの者が捕らえられること。
将軍後継争い
一三代将軍・家定は凡庸で跡継ぎがおらず、福井藩主・松平慶永は英明の聞え高い一橋慶喜を候補者として挙げ、老中阿部正弘はじめ、薩摩・宇和島・高知藩主らの賛同を得えました。
これに水戸前藩主・徳川斉昭に反感を抱く大奥が反対。彦根藩主・井伊直弼は血統論を唱えて紀州慶福(よしとみ)を推して南紀派の重鎮となりました。
安政五年二月、老中・堀田正睦(まさよし)が条約調印の勅許を請いに上京。対する松平慶永は家臣の橋本佐内を上京させ、内密の勅命により慶喜を推すよう運動させ、左大臣・近衛忠煕、前関白・鷹司政通および右大臣・同輔煕父子を一橋派に引き入れました。
条約調印
勅許を得られず帰府した正睦ブレーンの岩瀬忠震(ただなり)はハリスと交渉のうえ、六月一九日に勅許なしで日米修好通商条約に調印。斉昭は押掛け登城して直弼の無断調印を問責。慶喜と慶永もこれにならいました。
二五日に紀州慶福を将軍の継嗣とする旨の公表があり、条約調印と将軍継嗣の二大問題が解決されると、七月五日に押掛け登城の斉昭に謹慎、慶喜は登城禁止、慶永は謹慎を命じられました。孝明天皇は無断調印に激怒、将軍家定は死去しました。
水戸・福井・鹿児島諸藩の有志は、勅諚が水戸藩に降下するよう運動し、その間西郷隆盛も入京。その結果、八月八日に内を整え外夷の侮りを受けぬようにせよと勅諚(戊午(ぼこ)の密勅)が水戸藩に下されました。
大獄を強行
直弼は反対派一掃のため橋本佐内、吉田松陰ら八名が処刑。そのほか一橋派主要人物が受けた処罰は上記表のとおり。直弼は公卿・大名・志士ら一〇〇名に弾圧を加え幕威を示すも、多数の才能ある役人を排斥して却って幕府を弱体化させました。
何故直弼が大獄を強行できたかといえば、藩主の十四男として生まれ、不遇の時代に文武諸芸に励み極めたことも大きいでしょう。その過程で精神は鍛え上げられ、自信がついた。かくして何も間違っていない大老は、雪の降る桜田門外に倒れることとなるのでした。
参考文献
- 吉田常吉「安政の大獄」『国史大辞典1』(吉川弘文館、1979年)