概要
天保の改革とは、老中・水野忠邦が行った、天保一二年(1841)五月 天保改革の伝達から始まり、同一四年(1843)閏九月水野忠邦失脚までの約三年間に行われた政策の総称です。
将軍職を退いたあとも大御所として権勢をふるう徳川家斉(いえなり)が死去すると、水野忠邦は家斉の側近を追放して改革に踏み切りました。
これより先、約一五年前に文政の改革があり、これが享保・寛政の改革などには見られない、厳しい内容。水野忠邦はこれを見直すどころか、「御取締御改革」スーパーともいうべき方策に打って出ました。
理由の一つに、御取締御改革(文政の改革)の目玉だった無宿対策が一向に成果が上がらなかったことが挙げられるでしょう。
背景
「内憂外患」は寛政の頃より天保はより深刻化していました。
自然災害
天保期には大型台風や大暴風雨が襲来し、凶作によって各地で打ちこわしが起こりました。
外交
文政八年(1825)に異国船打払令という過激な政策を打ち立て、これにより天保八年六月(1837年7月)に、日本の漂流民送還しに来たアメリカ商船・モリソン号を砲撃。一方、阿片戦争があり隣国の清国がイギリスに敗北したとあって、日本に大きな衝撃が起こりました。
政策
上記背景により天保の改革では、質素倹約令から始まり、様々な分野で様々な改革が行われました。
質素倹約令
1.幕府は、物価高騰の理由のひとつに奢侈(贅沢)があると判断し、町人・百姓身分全般に向けて厳しい倹約を命じました。衣食住の隅々にわたる奢侈の取り締まりが強権的に、しかも徹底して行われました。
高価なあるいは手の込んだ料理や菓子類、玩具、錦絵、高価な衣類や装飾品、飼い鳥などなどを禁止する触れ書が、矢継ぎ早に出されました。
商業
- 株仲間の解散(天保一二(1841)年):奢侈の取り締まりだけでは効果が上がらず、株仲間が独占的特権を悪用して物価をつり上げているとして、解散を命じた。
農政
プロパガンダ
対外政策
- 薪水(しんすい)給与令(天保一三年)発令:異国船打払令の廃止。
- 上知令(あげちれい)(同年):対外的危機に備え、江戸・大阪周辺約一〇里以内の大名領等を幕府が没収。江戸・大阪周辺は幕府領、旗本領、大名領が入り組み(相給村という)治安上不安があった。
- 印旛沼(現 千葉県)掘割工事:外国艦隊によって江戸湾が封鎖されたりや妨害されたりなどの備えとして、新たな水運路を造成。
結果、考察
寛政の改革を行った松平定信は、商人・農民含めての仁政でした。当代きっても風流人である定信とも違う水野忠邦は、武家さえよければ構わないという往古的で保守的な考え方。かくして享保・寛政の改革に見られた社会福祉分野の充実は余り見られず、どことなく令和の感染症対策を彷彿させるような内容です。
それで天保の改革は、どうなったでしょう。農政4.御料所改革は農民の激しい抵抗があり、対外政策9.上知令は大名から町人・農民らの反発があり、10.印旛沼掘割工事は工事の途中で高波により破壊され、4.9.10共に水野忠邦失脚と共に中止されました。
一方この時期、長州、薩摩、水戸藩などは独自の藩政改革を目指し、新しい力を醸成していきました。水野忠邦失脚後の幕府は、阿部正弘が老中首座となり、ついにペリーが来航するのでした。