荻生徂徠『政談』巻之三
1.代官の歴史
「代官と言う役は重い役である。
その昔、国司(朝廷から諸国に赴任させた地方官)を在京の官人が兼ねて、その国司には名代を遣わして置いたことより起きて、代官と言う名になった。
公家の召仕いに国の守(かみ)をさせながら在京させて召仕い、その国の年貢徴収権の行使を取り計らせた。また平家の公達(きんだち:一族)も、越前の三位(平資盛)・能登守(平教経)・薩摩守(平忠度)等の類は、皆その国へは行かない。
郡司(地方行政官)を在京させれば郡代を遣わし、丞(じょう:八省の第三等官)を在京させれば判官代(はんがんだい)を遣わし、目(さかん)を在京させれば目代(もくだい:国守の私的代行者)を遣わした。
2.腰抜け役
されば文官なる故(ゆえ)、戦国の時分にこれを軽んじて腰抜け役と云ってから、今は地方(じかた)の支配となり、小身者を申附けている。
然しながら代官の下で働く者は手代(てだい)と称して殊の外に賤しき者を附け置いて、年貢の取立てより外に肝心なことはなしと心得ること、もっての外の事。その身は立身の望みもなく、下劣な役目と言うことに成って、しかも小身なので自ら悪巧みをして、お仕置きに逢う人が絶たない。
これを文官とすることも、国の守・介・丞・目・郡司などは文官なれども、公家の代には文武を兼ねていたが、鎌倉の時分より、武家より守護を置いたことより、武官の職務は守護の方へ渡し、専ら文官に成ったようである。
3.田舎を知らない
願わくは二三千石以上の人を申付け、代官の名を更(あらた)め、下役に今の代官くらい人を申付け置き、武備も自ら備えるようにしたい。
刑罰も軽い事ならその所で執り行わせ、専ら民を治めることを第一とし、農業の筋も、民の知らぬ事あらば是れを教え[註1]、川除(かわよけ)・堤普請の類も申附け、盗賊・博奕等、邪宗・邪法の類も、これを押さえるべし。
総じて百姓の奢り盛んになることより、農業を厭(いと)い、商人となることが近頃盛んで[註2]、田舎は殊の外衰微している。これにより博奕・盗賊等が止まることがない。
人殺し等がある時も、その地に奉行なき故、江戸へ報告するうちに、日数延びては僉議(せんぎ)もならぬことになり、大形何も彼も田舎では物入り多くなることを厭い、江戸へ申し出ない。博奕・盗賊の類も心のままだ。
川除・堤普請の類も、今は代官が江戸居住するゆえ不案内である[註3]。それゆえ手代任せにする故、手代は江戸の町人と手を組んで、何事も江戸流にしてしまうので、物入り広大だ。代官が大身にて武備を兼ねて備えざれば、飢饉打続き、盗賊盛んである時に至って、これを鎮める方法がない。
4.天草の乱での活躍
これ以前、天草の陣の時、肥後の川尻(熊本市)と云う港に、(熊本城主)細川越中守(忠利/忠興の子)の蔵が有り。
この地の代官・川北九大夫と云う者なるが、この者心得たる者にて、平生(へいぜい:普段から)国産鉄砲を数多く拵(こしら)え置き、近辺の間数(けんすう)を測らせておいた。
天草に一揆が起こったと通達されるといなや、近辺に一間に一本ずつ杭を打たせ、一本一本に火縄をはさみ、三間に一挺づつ鉄砲を配り、終夜鉄砲を打ち続けた。
一揆共は籠城の用意に川尻の米を取ろうして、半ばまで兵船を押し出したが、火縄が夥しく見え、鉄砲の音しければ、熊本の軍兵が早川尻を固めていると思い、半ばより引き返したと、後に生捕った者が語ったと云うことを聞く。
その時川尻の米を切り取られたなら、天草の兵糧は沢山に成ったが、城は容易には落ちなかったので代官・川北がやり方は、主人の為、天下の為、勝れた勲功である。
去れどもその時分も、箇様なることは功に立たず。川北が後に城を攻める時は一番乗りをしたる故、千石に成った。されば代官は武備を備えずしては叶わないこと。勘定の方計りに地方奉行の指示を受け、役目の子細は御老中か若老中等の直の配下とし、重い役に定めたきことである。」
補註
『論語』篇名 文章番号
- 是れを教え…述而02「學びて厭わず、人を誨(をし)へて倦(う)まず。
- 農業を厭(いと)い…顔淵11「君(きみ) 君たり、臣 臣たり、父 父たり、子 子たり。
- 江戸居住するゆえ不案内である…子路13「これを授(さず)くるに政を以ってして、達せず。四方に使ひして、専(ひとり)対(こた)ふること能わず。」
参考文献
現代語訳について
当頁『政談』の現代語訳は、辻達也 校注「政談」『日本思想大系36 荻生徂徠』(岩波書店、1973年)をもとに当サイトの運営者が現代語訳。徂徠節を尊重し、直訳を心掛けた。また、尾藤正英(翻訳)『荻生徂徠「政談」』(講談社、2013年)も参考にした。
補註について
補註は当サイト独自に平岡武夫『全釈漢文大系 第一巻 論語』(集英社、1980年 )を参照して附した。