鷹場とは
概要
江戸時代、徳川将軍家以外に鷹狩を許されたのは、将軍にその実施を許可された諸大名だけでした。尾張・水戸・紀伊の御三家は将軍に鷹場を与えられて、はじめて鷹狩が可能となりました。
図の通り、将軍家と水戸家の鷹場は本拠地周、尾張・紀伊藩に至っては関東に鷹場があります。御府内(ごふない)とは江戸、江戸城を中心とする地域。雑司ヶ谷(ぞうしがや,豊島区)の捉飼場(とらえかいば)は、将軍用の鷹の訓練や繁殖をした場所です。
紀伊藩鷹場
紀州藩が将軍家から与えられた鷹場は、大宮鷹場と呼ばれ、南は川口、北は北本近辺まで、浦和・大宮を含む広大な範囲でした。
享保年間頃に鷺が、営巣するようになり、紀州藩により手厚く保護されたことにより、訪れる鷺は数万羽に上り、当時の一大景勝地になりました。営巣先は新染谷村(さいたま市見沼区)でしたが荒れて、文化年間頃には野田の鷺山に移りました。
のちに鷺山は特別天然記念物になり、鷺が数を減らし指定も解除。然しながら、私の教室がある埼玉県西部には入間川が流れ、鷺は最もよく見る野鳥の一です。
尾張藩鷹場
尾張藩が将軍家から与えられた鷹場は、武蔵国入間・新座・多摩の三郡。「三鷹市」、あるいは西武鉄道国分寺線「鷹の台駅」の名はその名残であると言われ、国分寺市には御鷹の道という湧き水の流れる遊歩道があります。
二重支配
鷹場に指定された村々は、紀伊藩領や尾張藩領になるわけでなく、幕府の代官や旗本の支配を受けながら御用も勤めます。一方で鷹場に関わる法・鷹場法度と夫役(労働課役)が課せられるので、二重支配を受けていたことになります。それで何が起こるのかというと、挑灯の取り扱い一つ見ても「混乱」が起こるのでした。
参考文献
- 髙田智仁『「鷺山に関する文書を読む」解説』埼玉県立文書館 講習資料(2018年8月29日)
- 槇本晶子「尾州藩の鷹場について」『多摩のあゆみ第50号 』(多摩中央信用金庫、1988年)
- 本間清利『御鷹場』(埼玉新聞社、1981年)
- 所沢市史編さん委員会編『所沢市史上』(所沢市、1991年)
- 宇野藍子『古文書講師になれました』(柏書房、2017年)