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荻生徂徠・政談その1

荻生徂徠とは

荻生徂徠画像

荻生徂徠ってどんな人?

荻生徂徠は江戸中期の儒学者です。

徂徠の著作・政談に入る前に、この頁で日本を代表する儒学者・徂徠の一風変わった経歴をご紹介しましょう。

千葉に流される

徂徠の祖先は、もとは三河地方の武士・荻生氏で、祖父の代から医者になり、父の方庵(ほうあん)は五代将軍・綱吉の側医となりました。

学問を志すには申し分のない環境に生また徂徠。しかし14歳の時、父・方庵が綱吉の機嫌を損ない、江戸払いとなり、家族ともども上総国長柄郡(現在の千葉県茂原市)に流されました。

それからというもの千葉の田舎で、徂徠曰く「君子もおらず、農山漁民たちとともにいた。書物が好きだったが、借りる書もなく、友だちや親戚の交流の楽しみもなく、十二年。当時ははななだ悲しんで不幸だと思った。」…という暮らしをしていました[註1]。

しかしただ悲しんでいる徂徠ではありませんでした。徂徠は農山漁民たちと交わりながら、彼等の生活実態を鋭く観察していたのです。

久しぶりに見た都市・江戸は「抜群」

27歳あたりになって徂徠はやっと許されて江戸に戻りました。そして久々に見た江戸は徂徠にとって「抜群」に「変わっていました」。

「一三年を経て御城下に帰ってみると、御城下の風は以前とは抜群に変わっている。」「始めから御城下に住み続けていたなら、自然と移る風俗ゆえ、うっかりして全く気付かなかったであろう。」と徂徠は政談(巻一)[註2]の中で述べています。

また徂徠は、自分の学を「南総の力」によるものだとも言いました[註3]。

こうして江戸に戻った徂徠は五代将軍・綱吉の寵臣・柳沢吉保に仕え、綱吉の御前に出て、講義や議論を命せられる機会も多くなりました。しかし綱吉死後、一朝にして吉保の幕府における権勢は失われました。

徂徠は吉保のはからいで、藩邸を出て江戸の市中に居住を許され、学問に専念することにしました。徂徠この時44歳。

ライバルの新井白石

これに対し、六代将軍・家宣のもとで幕府に登用された新井白石は、正徳の治を実現することに努力し、朝鮮使節の応接などに活躍しました。

その頃、徂徠は前述の通り学問に励んでおり、友人や弟子に宛てた書簡の中では、しばしば白石に対する批判や軽蔑の気持ちをもらしていました。

白石は徂徠より9歳年上の儒学者です。上総国(千葉県)久留里(くるり)藩主の土屋家に仕えていた白石の父が、白石が21歳のときに主家から追放され牢人となり、その後15年間にわたり貧窮な生活を送らなければならなかった―という奇しくも徂徠と同じ様な体験をしていたのでした[註4]。

徂徠、復活の晩年

幼い将軍・家継の死去により、吉宗が登場すると、白石と徂徠の立場が再び逆転します。吉宗は旗本や譜代大名からのこれまでの側近政治に対する反感を見てとり、白石ら側用人を排除しました。

一方で吉宗は徂徠を幕臣に登用しようとしましたが、徂徠の方で何故か断ってしまいました。しかし吉宗から政治に関する意見を求められると、徂徠は千葉での体験を踏まえた体系的政治論である「政談」を献じました。徂徠この時61歳。その2年後、63歳で生涯を閉じました。

徂徠の死後、政談に示された政治改革論は、その後の幕府や諸藩の政治、思想界に大きな影響を与えていくのでした。それでは早速、ページをめくって政談の内容を見てみましょう!

  

補註

註1:頼 祺一 (編集)『儒学・国学・洋学 (日本の近世) 』(中央公論社、1993年)

註2:吉川 幸次郎, 丸山 真男, 西田 太一郎, 辻 達也 (著)『日本思想大系〈36〉荻生徂徠 (1973年) 』(岩波書店、1973年)

註3:註1と同書。

註4:荻生 徂徠 (著), 尾藤 正英 (翻訳)『荻生徂徠「政談」 (講談社学術文庫) 』(講談社、2013年)

荻生徂徠・政談

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11.貧困を救う道/12.金で物を買う将軍/ 13.スピード社会・江戸/14.スピード重視の家

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