プロフィール
荻生徂徠(寛文六(1666)~享保一三(1728))は江戸中期の儒学者。通称は惣右衛門、徂徠は号。また物茂卿(ぶつもけい)と自称。
中国古代の儒家の書を価値の基準とした、古文辞(こぶんじ)学派の祖。江戸時代の思想界において、最も影響を与えた人物といっても過言ではありません。
則ちその学問に対する姿勢は、朱子学を退け、古の聖人の道に立ち帰り、漢文は中国の発音で読まねばならない[註]、といったものです。
代表作は『弁道』『弁名』の二弁ほか『学則』などで、現代においてもなお、論語や五常などを学ぶ上で参考になります。他にも『論語徴』(ろんごちょう)『南留別志』(なるべし)『太平策』など今に遺る徂徠の書や書簡は夥しく、きほん経学や漢文の知識がないと難解です。
然しながら徂徠晩年の著作で日本政治論の『政談』は、ほとんど予備知識がなくても楽しめると思います。且また当サイトでは本書を紹介していくのですが、その前に彼の一風変わった経歴をご紹介しましょう。
生涯
1.千葉に流される
徂徠の祖先は、もとは三河地方の武士・荻生氏で、祖父の代から医者になり、父の方庵(ほうあん)は五代将軍・綱吉の側医となりました。
学問を志すには申し分のない環境に生まれた徂徠。しかし一四歳の時、父・方庵が綱吉の機嫌を損ない、江戸払いとなり、家族ともども上総国長柄郡(千葉県茂原市)に流されました。
それからというもの千葉の田舎で、徂徠曰く「君子もおらず、農山漁民たちとともにいた。書物が好きだったが、借りる書もなく、友だちや親戚の交流の楽しみもなく、一二年。当時ははななだ悲しんで不幸だと思った。」…という暮らしをしていました[文献1]。
しかし徂徠は、農山漁民たちと交わりながら、彼等の生活実態を鋭く観察していました。
2.久しぶりに見た江戸
二七歳あたりになって徂徠はやっと許されて、江戸に帰還。
「一三年を経て御城下に帰ってみれば、御城下の風は以前とは抜群に代わったのを見た。」「始めから御城下に住み続けたらば、自然と移る風俗ゆえ、うっかりして全く気付かなかったであろう。」(『政談』巻之一)[文献2]。
また徂徠は、自分の学を「南総の力」によるものだとも言いました[文献3]。
こうして江戸に戻った徂徠は、綱吉の寵臣・柳沢吉保に仕え、綱吉の御前に出て講義や議論を命せられる機会も多くなりました。しかし宝暦六年(1709)綱吉死去、一朝にして吉保の幕府における権勢は失われました。徂徠この時四四歳。
吉保のはからいで藩邸を出て江戸市中に居住を許された徂徠は、日本橋茅場の私宅を構えました。ここを中華風に蘐園(けんえん)と称し、学問に専念することに。
3.ライバルの新井白石
これに対し、六代将軍・家宣のもとで幕府に登用された新井白石は、正徳の治を実現することに努力。家宣将軍祝賀として朝鮮使節が来日。この時の白石の措置へに対し、徂徠は「新井なども文盲なる故、是等のことに了簡つかぬ也」(『政談』巻之三) [文献2]と批判しています。
白石は徂徠より九歳年上の儒学者。上総国(千葉県)久留里(くるり)藩主の土屋家に仕えていた白石の父が、白石二一歳のときに主家から追放され牢人となり、その後一五年間にわたり貧窮な生活を送らなければならなかった――という奇しくも徂徠と同じ様な体験をしていたのでした。
白石について詳しくは、自身の著『折りたく柴の記』をご参考ください。
4.復活の晩年
幼い将軍・家継の死去により吉宗が登場すると、白石と徂徠の立場が再び逆転。吉宗は旗本や譜代大名からの、これまでの側近政治に対する反感を見てとり、白石ら側用人を排除しました。
享保の改革を断行する吉宗は、徂徠を幕臣に登用しようとしましたが、徂徠の方で何故か断ってしまいました。しかし吉宗から政治に関する意見を求められると、徂徠は千葉での体験を踏まえた体系的政治論である『政談』を献じました。徂徠この時六一歳。その二年後、六三歳で生涯を閉じました。
死後『政談』に示された政治改革論は、その後の幕府や諸藩の政治、思想界に大きな影響を与えていくのでした…。
補註:漢文の中国音問題
吉川幸次郎先生 曰く「漱石はべつに中国音を知っていたわけではない。漱石ばかりではない、過去の日本の漢詩人のおおむねは、みな知らなかったのであり、ただ徂徠その他のみが、少数の例外であった。どの字が平、どの字が仄と、中国人ならば耳で判定し得る。日本人ではそうはゆかないのに、どうして会得したかといえば、この字は平、この字は仄と、いちいち、約束として、おぼえたのである。その労苦、熱心、中国人の驚嘆するところである。」 [文献4]
参考文献
- 頼祺一(編集)『儒学・国学・洋学(日本の近世)』(中央公論社、1993年)
- 辻達也 校注「政談」『日本思想大系36 荻生徂徠』(岩波書店、1973年)
- 1.同書。
- 吉川幸次郎『漢文の話』(筑摩書房、1986年)「上篇 第一 はじめに」13頁