忠とは
まず忠とは何か、学術的な観点から確認しましょう。
荻生徂徠
荻生徂徠『弁名』上_忠・信 三則[文献1]に曰く「忠なる者は、人のために謀り[註1]、或いは人の事に代わりて、能(よ)くその中心(心の奥底)を尽くし、視ること己の事のごとくし、懇到(こんとう:懇ろで行き届き)詳悉(しょうしつ:甚だしく詳しく)、至らざることなきなり。
或いは君に事(つか)ふるを以てこれを言ひ、或は専ら訟を聴く(裁判をすること)を以てこれを言ふ。訟を聴くもまた君に事へ官に居るの事なり。」「「子は四を以て(『論語』述而24)教ふ、文・行・忠・信」と。忠は政事の科たり。政事なる者は、君の事に代る。故に忠を以てこれに命(なづ)く。」
殉死
次に忠において殉死が成立するのか、過去の実例含め以下に紹介します。
山鹿素行
九歳で林羅山の門に入った、儒学者の山鹿素行(1622-1685)は殉死をはっきりと否定。
「主君が逝去した時に殉死して終えるのは容易であってそれゆえ世に多いが、常に君を諌め戒(いまし)めて、君の政を助け民を救うことはむしろ困難なことである。このことから考えてみると、臣の職務は、ただ死ぬことを一途につきつめるのを忠勤と思うべきではないのだ。」(『山鹿語類』-「納諫言」、一三「死易生難」文献2)。
諫言
山鹿素行は詰まる所、諫言(かんげん)が「むしろ困難」と言っていますが、『論語』先進24「所謂(いわゆる)大臣なる者は、道を以って君に事(つか)へ」るべく、中国・朝鮮半島では諫言を重要視。
例えば明・万暦帝は、臣下の諫言が激しすぎて、ついに職務放棄するに至りました。また朝鮮王朝では司諫院(サガンウォン)という政治の過失・百官の過ちを咎め、論駁する機関を設けています。
『葉隠』
『葉隠』(享保元:1716)は、佐賀藩主二代・光茂の側近である山本常朝(つねとも)(1659-1719)の談話の筆録したもので、全一一巻よりなり『葉隠聞書(ききがき)』とも言います。その理想的な姿を藩祖鍋島直茂・初代勝茂の父子に求めました。
「武士道というのは、死ぬことと心得た」(聞書一 教訓)、「武士道は死に狂いである」(同)。武士道は忠のために死ぬことなのである。そしてその忠とは、「恋にはまる至極とは、忍ぶ恋である。……主従の間などは、この心ですむものだ」(聞書二 教訓)[文献2]
武将の実態
直茂・勝茂の父子も加わった朝鮮出兵で、日本の捕虜となった儒者の姜沆が見た武将とは以下のようなものでした。
姜沆『看羊録』[文献3]曰く「以前[私(姜沆)が]、倭将・倭卒に「…日本人だけが死を楽しみとし、生を悪むのは、一体どうしてなのか」と問うたところ、みな次のように答えた。
「日本の将官は民衆の利権を独占し、一毛一髪[とるに足らぬ物]も民衆に属するものはない。だから、将官の家に身を寄せなければ、衣食の出どころがない。…佩刀(はいとう)がよくなければ、人間扱いされない。
刀瘡(かたなきず)の痕(あと)が顔の面(おもて)にあれば、勇気のある男だと見なされて重[い俸]」禄を得る。耳の後ろにあれば、逃げ廻る男と見なされ、排斥される。それだから、衣食に事欠いて死ぬよりは、敵に立ち向かって死力を尽くす方がましである。
力戦するのは、実は自分自身のためを謀ってそうするのであって、何も主[公]のためを計ってするのではない。」
過労死
徂徠曰く「忠は政事の科たり」は、西田太一郎氏[文献1]曰く「政は政務の重大なもの、事は政務の軽小なものをいう」。であれば商業活動の組織において忠は無関係と考えられます。
歴史的に日本を見れば、数ある儒教徳目の中で常に忠が突出。鎌倉時代以降、戦争を業とする武家が治める政治が長く続き――江戸時代に入っては、『葉隠』や百姓往来の忠の挿絵に見られるように、既に戦争が過去――則ち忠も過去になってしまったかのようです[註1]。
しかし時代下って真珠湾という大いなる場を得、戦後は過労死が世界共通語になってしまっている――令和に至っても全国的に『葉隠』[註2]の説く「鍋島至上主義」[文献5]を貫くにせよ、儒教が考える忠は諫言の方にあって殉死ではありません。この点、誤解のないようご注意ください。
補註
参考文献
- 西田太一郎 校注「弁名」『日本思想大系36 荻生徂徠』(岩波書店、1973年)86頁、補註568頁
- 土田健次郎『儒教入門』(東京大学出版会、2011年)48頁~の論
- 平岡武夫『全釈漢文大系 第一巻 論語』(集英社、980年 )
- 姜沆(著)・朴鐘鳴(注釈)『看羊録』(集英社、984年 )176-177頁
- 杉谷昭・宮島敬一・神山恒雄・佐田茂『佐賀県の歴史(県史14)』(山川出版社、2013年)「6章3節 法制の整備と『葉隠』」174-176頁