概要
寛政の改革とは、老中・松平定信(宝暦八(1758)~文政一二(1829))が行った、天明七年(1787)~寛政五年(1793)の約五年間に行われた政策の総称。祖父の八代将軍吉宗が行った享保の改革を模範しました。然しながら享保の改革とは大きな相違点があります。
享保のころは、もっぱら国内問題にだけ取り組んでいればよかったですが、寛政の改革は新たに外交問題が加わりました。また失脚した老中・田沼意次の政策は商業中心でしたが、定信の政策は自然災害の背景をとして重農主義となりました。
背景
外国船の来航
寛政三年(1793)紀伊大島(現 和歌山県)にアメリカの船が、初めて日本に来航。民間の貿易証人で、これは単にラッコの毛皮を売りに来ただけですが、そのあともアメリカ商船やら捕鯨船やらが続々と来航。幕府にとってキリスト教は断じて許されず、目の当たりする船――科学技術も脅威でした。
自然災害
有名な天明の飢饉を背景に、寛政の改革が行われました。
政策
農政
武家、天皇
外交
教育・教化
結果、考察
田沼意次時代の賄賂横行から幕政の公正化を目指し、官学を朱子学(儒教)と定めただけあって政策に仁政が見て取れます。然しながら鎖国を祖法としても、外国から日本に来る船は止められません。
また農業では食べて行けず村を捨て、江戸に出る若者は増加の一途を辿りました。それをまた人返しの法を発令しても、本人たちも好きで江戸に来ているわけではありません。彼等は無宿と呼ばれる人々で、江戸中後期の大きな社会問題となりました。
参考文献
- 藤田覚『近世の三大改革』(山川出版社、2002年)
- 所沢市史編さん委員会編『所沢市史上』(所沢市、1991年)