尊王攘夷とは
概要
尊王攘夷(そんのう-じょうい)とは、尊王と攘夷という別々の意味を持つ二語が組み合わさった言葉です。
尊王(そんのう)は、王を尊ぶ。攘夷(じょうい)の字義は、夷狄(いてき)をはらう。
攘(ジョウ)は訓読みで「はらう」。夷(イ)は訓読みで「えびす」、外敵の意。夷は中国で古くから野蛮な民族――すなわち夷狄の意として用いられてきました。
幕府は、勅許(ちょっきょ:天子の許可)なしに日米修好通商条約に調印。孝明天皇は開国絶対反対の立場ですが、激派ではありません。
しかし攘夷論者は、幕府の開国政策に反対する立場の根拠を朝廷の保守的因習的な排外論に求めました。天皇の政治的地位はその意思と能力に関係なく、いつの間にかせり上げられた末、攘夷と尊王が結びつきました。
ヒュースケン暗殺
開港直後、攘夷激化により外国人は次々襲撃され、万延元年(1861)一二月、米国公使館の日本語通訳ヒュースケン(Hendrik C.J.Heusken,1832-1861)が暗殺されました。
ヒュースケンは、オランダ・アムステルダム生まれ。一五歳で学校をやめ父の商業を継ぎましたが死去にあい、二一歳で米国ニューヨークへ行きました。ハリスに雇われ、1856年に通訳官として来日。蘭英独仏語に通じ、来日後に日本語を取得。日本との条約締結においてハリスを補佐しました。
片腕だったヒュースケンを失ったハリスは、幕府に対して賠償金ではなく、ヒュースケンの祖国オランダの老母に扶助料一万ドルを要求し、幕府もこれを贈って解決しました。
ハリス帰国後は、英駐日公使オールコックが日本外交の主導権を握り、生麦事件など攘夷運動は沈静化するどころか益々激しくなっていくのでした。
参考文献
- 秋本益利「ヒュースケン」『国史大辞典11』(吉川弘文館、1990年)