基本データ
概要
水戸浪士
総帥
- 金子孫二郎:藩士、二月に脱藩。要撃結果を待って西上。伊勢四日市で薩摩藩吏に追捕、死罪。
- 高橋多一郎(たいちろう:1814-1860):藩士、二月に脱藩。大坂四天王寺で子の庄左衛門とともに自刃。享年四七。
実行部隊 一七士
- 1.関鉄之介:藩士、二月に脱藩。十月、越後雲母温泉で水戸藩吏に捕らえられ、翌二年死罪。
- 2.斎藤監物(けんもつ)、3.佐野竹之介、4.黒沢忠三郎、5.蓮田市五郎:老中脇坂安宅邸へ自訴。2~4は傷のため死去、5は死罪
- 6.稲田茂蔵:即死。
- 7.大関和七郎、8.森五六郎、9.森山繁之介、10杉山弥一郎:熊本細川斉護邸へ自訴、のちに死罪。
- 11.山口辰之助、12.広岡子之次郎(ねのじろう)、13.鯉淵要人(こいぶち-かなめ):重傷のため自刃。
- 14.岡部三十郎、15.広木松之介、16.海後嵯磯之介(かいご-さきのすけ)、17.増子金八(ましこ-きんぱち):逃れる。14.死罪。15.は桜田事変三周年の同三月三日に鎌倉上行寺で自刃、16.17.は命を全う。
薩摩藩士
- 18.有村次左衛門:直弼の首級を挙げるが、重傷のため自刃。
- 19.有村雄助:18.の兄。総帥金子と同じく伊勢四日市で薩摩藩吏に追捕、藩地で自刃。
その他
- 佐藤鉄三郎:総帥金子に吉報を届ける。
- 木村権之衛門:総帥高橋・金子の指示で、薩摩藩士・有村兄弟ら引入れる。逃れて行方を晦ます。
解説
背景
大老・井伊直弼は、勅許なしで日米修好通商条約を締結。また将軍跡継ぎは一橋慶喜を退け、紀伊藩主・徳川慶福(のちの家茂)に決定しました。
孝明天皇は勅許なしの条約調印に激怒。また尊攘派の諸藩の有志は、勅諚が水戸藩に降下するよう運動し、ついに安政五年八月八日に水戸藩への密勅降下となりました。
直弼は勅諚の列藩への回避を禁じ、反対派一掃のため安政の大獄を起こしました。これにより水戸前藩主・徳川斉昭、一橋慶喜父子が処罰され、水戸藩士の高橋多一郎と関鉄之介らは薩摩志士と結託して挙兵しようとしました。薩摩志士は、藩主・島津茂久(忠義)が軽挙を戒(いまし)めたので挙兵に応じることを断念。
一方水戸藩は、幕府より勅諚返納の命令が下ったので反幕感情は激化、直弼要撃へと向かいました。かくして水戸藩有志五〇人を、直弼要撃と外国人商館焼討ちの二手に分けました。薩摩藩有志は京都を守衛し、東西に呼応。時に水戸藩庁の逮捕のための探索厳しく、高橋・関・金子孫二郎らが脱藩しました。
決行
決行先日、同士は品川の妓楼相模屋に決別の宴を開き、水戸藩五士含む十九士らが参集。総帥の金子と先発隊の一士、薩摩藩士の有村雄助・次左衛門兄弟らは欠席しました。
当日三日早朝、十七士は愛宕山に集合、桜田門外に赴きました。また十七士は士籍・神職などの分による除籍願書を藩庁に提出。有村次左衛門を加えた十八士は、雪の中を登城する直弼の行列の供先を狙って混乱させ、短銃の音を合図に一斉に駕籠に斬りかかり、有村次左衛門が直弼の首級を挙げました。
彦根藩側では即死、深手のため死んだもの八士。要撃に参加した浪士で命を全うしたのは、十八士の海後嵯磯之介と増子金八のみでした。
参考文献
- 吉田常吉「桜田門外の変」『国史大辞典6』(吉川弘文館、1985年)