背景
幕府は勅許(ちょっきょ:天子の許可)なしに日米修好通商条約に調印。このことは攘夷を刺激し激化。米国のとの条約に続き、日本は英国とも条約を締結(安政の五か国条約)。これにより米国同様英国は襲撃事件に見舞われました。
対英攘夷事件
1.東禅寺事件
各国の公使館は江戸の寺院などを借りて開設。英国仮公使館は、江戸高輪の東禅寺にありました。
- 文久元年(1861)五月二八日:英国仮公使館(東禅寺)の書記官らが水戸藩士に襲撃されて負傷。駐日公使のオールコックは当寺に居住していたが、難を逃れる。
- 同二年(1862)五月二九日:同館の警備にあった松本藩士が英国人二人を斬殺。
当事件より前から相次ぐ襲撃事件により、幕府は各国大使館を一か所(品川御殿山)にまとめ、警備の強化を計りました。建物は同年秋には完成。
2.生麦事件
- 同年八月二一日(1862年9月14日):英国商人の一行が、薩摩藩主の父・島津久光の行列をさえぎったとして、神奈川生麦村(横浜市鶴見区)で襲撃され、リチャードソンが殺害される。
リチャードソン(?-1862)英国商人。中国に十数年滞在し、帰国の途中観光のため日本に来遊。横浜在留の英国商人マーシャル、米国商社員英国人クラークと観光客ボロデール夫人と共に川崎大師へ馬で小旅行に赴く途中、神奈川生麦で斬殺されました。
それまでの攘夷テロは、外交官や軍人が対象でしが、生麦事件によってはじめて民間証人が被害者となりました。
3.イギリス公使館 焼打事件
襲撃事件に対する無策ぶりに英国は、幕府の鎖国回帰を狙ったものなのではないかと疑念を抱きました。
参考文献
- 保谷徹『幕末日本と対外戦争の危機-下関戦争の舞台裏』(吉川弘文館、2010年)