概要
文化文政の時期は凶作があり、荒地増加に伴い、村の宗門人別帳(戸籍)から外された無宿が大きな社会問題となりました。無宿の増加は本百姓崩壊を意味し、幕藩体制の崩壊の危機となります。
幕府は無宿対策として、文化二年(1805)関東取締出役(八州廻り)を創設。続いて、文政一〇年(1827)御取締御改革こと文政改革を断行しました。
文政改革令は、前文五か条、後文四〇か条に及ぶ長文の法令と、関東一円に組合村を編成したところに大きな特徴があります。五人組前書(文政一二年)は、もっぱら当改革の要約になっていいるので併せてご参考ください。
文政改革 法令
前文 五か条
後文 四〇か条
考察
金もかけずに細かく規則を並べている場合かよ! と、当時のちょっとはモノを考える人なら唖然としたはず。
文政改革の二年後、武蔵国の名主・吉田市右衛門文書は「浅間山噴火(天明三年:1783)以降は、大雨の折りに度々出水して秋の作物が流失」、村の困窮ぶりを奉行所に訴えています。
無宿を取り締まるよりも、根気強く根本原因の荒地増加を食い止めるが先決でしょう。
『論語』に「人民を養うには恵み深く、人民を使役するには義(節度)」といい、徳川吉宗の享保の改革、松平定信の寛政の改革までは福祉政策など仁政が伺えます。
全体として儒教の政治理論からも遠く隔たった感があります。文政八年(1825)に異国船打払令、二年後に当「御取締御改革」、約二五年後にペリーが来航します。
参考文献
- 「第三節 一 文政改革法令とその背景」『所沢市史上』(所沢市、1991年)772-782頁
- 平岡武夫『全釈漢文大系 第一巻 論語』(集英社、1980年 )「公治長16」137頁
- 森安彦「文政の改革」『国史大辞典12』(吉川弘文館、1979年)414-416頁