ペリー来航
第一回訪日:親書受け渡し
1853年7月8日(嘉永六年六月三日)ペリー59歳率いる東インド艦隊が、三浦郡浦賀村(横須賀市)に蒸気船サスケハナ号とミシシッピ号、帆船(はんせん)プリマスとサラトガ号四隻で来航しました。
瓦版に描かれているように当時の日本の人々は、この黒船に驚愕。大きさもさることながら「蒸気機関で動く」船ということに驚いたのでした。
同年7月14日(六月九日)同郡久里浜村(横須賀市)で大統領の親書受け渡しが行われました。浦賀に船員三〇〇人ほどを下せないとして、幕府と協議して久里浜が選ばれました。
船員のうち音楽隊は四〇人ほどでアルプス一万尺などを演奏。ペリー艦隊は17日浦賀を出港しました。
第二回訪日:日米和親条約調印
翌1854年2月(嘉永七年一月)ペリー第二回訪日。小柴沖(横浜市金沢区)に七隻。うち蒸気船はサスケハナ号、ミシシッピ号、ポウハタン号。3月4日にサラトガ号が到着。六〇〇人のうち上陸は四四六人でした。
同年3月8日(同年二月一〇日)ペリー一行、関内(かんない/横浜市中区)に上陸。同3月31日(嘉永七年三月三日)日米和親条約が結ばれました。内容は下田(静岡県、伊豆半島の南東端下田湾)と箱館(現・函館)の開港、薪水(しんすい)食糧の購入、漂着米国人の保護など。
下田と箱館は幕府領で、他藩から非難されないよう配慮されました。また日米和親条約は友好親善条約の意味合いしかありません。則ち幕府は通商条約を巧みに回避。これは天保一三年(1842)薪水給与令の延長線上にあり、幕府の政策において矛盾する政策ではありませんでした。
琉米協定
同1854年7月11日ペリーは、琉球との間に琉米(りゅうべい)協定を結びました。来日した米国人に対し好誼(こうぎ)を持って対応、水先案内人および物品を適正価格で提供することを定めました。
史料情報
- 図1:蒸気船[図](フレカツト船図)埼玉県立文書館寄託 増田家文書402
- 図2:武州横浜於応接所饗応之図 同館寄託 同家文書401
- 年代:両史料共に近世
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参考文献
黒船来航史
1.大航海時代 2.ペリー来航前の黒船史 3.ペリーとは