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黒船来航史5

阿部正弘の政策と決断 守られない日米和親条約

測量艦隊司令長官ロジャースと老中首座阿部正弘

体格もあちらに負けてない?阿部正弘。

ペリー来航後の、老中首座・阿部正弘三七歳と米国艦隊の知られざる駆け引きとは?!

阿部正弘の政治外交

プロフィール

備後国(広島県)福山藩主の六男・阿部正弘(あべまさひろ:文政二~安政四)は、水野忠邦の免職後、天保一四年(1843)に二五歳で老中になりました。

しかし譜代大名独占による老中制度では、幕府の深刻な武威低下にあって、外交問題に対応できないため安政の政策を断行。

薩摩藩主・島津斉彬(なりあきら)、越前藩主・松平慶永(春嶽)、宇和島藩主・伊達宗城(むねなり)と連携し、水戸(徳川)斉昭(なりあき)を幕政参与とし、将軍後継として一橋慶喜を推しました。

また海防掛(かいぼうがかり)[1]を任命し、旗本子弟に剣・槍や洋式訓練を行う講武所(こうぶしょ)を設置。加えて江川英龍(太郎左衛門)に命じて、品川台場を造営させました。また幕臣以外にも広く門戸を開放して、洋学研究教育機関・蕃書調所(ばんしょしらべしょ)[2]や長崎海軍伝習所[3]を設置しました。

測量艦隊司令長官 来日

米国にはペリー率いる東インド艦隊とは別に、太平洋航路拡大および海図(かいず)作製を任務とした測量艦隊がありました。

いくらペリーが外交で成果を上げようとも、測量艦隊の安全な航路開拓なければ、米国から船を進めることができない。そのような意味でも重要な任務を担った艦隊にして『忘れられた黒船』でした。

ペリーとの間に確執などがあって、退任に至った測量艦隊司令長官リンゴールドの後を引き継いだのは、ペリーとの関係が良好なロジャース。新・測量艦隊司令長官ロジャースは、日米和親条約の実効性の確認も含め、日本へ向けて船を進めました。

1854年(嘉永七)11月16日琉球に到着。数カ月前に結んだ琉米協定条約により、水先案内人が提供されるはずしたがなされず非協力的でした。同12月2日鹿児島湾に到着。薩摩藩に日米和親条約により下田・函館以外は漂着を許すことができないと申し渡され、一旦香港へ向かいました。

翌1855年5月13日ロジャースの測量艦隊が下田入港。下田箱館以外も測量希望したので、幕府はどうすべきか協議に入りました。日米和親条約以上のことを要求された幕府は、強国相手に万事休す。ロジャースの測量艦隊は幕府の回答を待たずに、翌1855年5月21日に戸田(静岡県沼津市)で測量を実施しました。

同年9月23日(安政二年八月一三日)老中首座・阿部正弘三七歳は、戦争になるかもしれないが許可による国内の反発を懸念。測量拒否という決断を下しました。

その後、間もなくして(同二年一〇月二日)に安政の大地震江戸を襲いました。正弘は、堀田正睦(まさよし)に老中首座と対外関係の全権を譲って翌年三九歳で病死しました。

補註

  1. 海防掛(かいぼうがかり):幕府の海防・外交に関する諮問機関。弘化二年(1845)老中阿部正弘・牧野忠雅らが任じられて以降常置。狭義には阿部らの下で実務にあたった者をいう。安政五年(1858)外国奉行の設置により廃止。
  2. 蕃書調所(ばんしょしらべしょ):のちの開成所(かいせいしょ)。明治維新を経て、開成学校、東京大学へと発展。『西洋時計便覧』著者の柳河春三は蕃書調所に出仕。
  3. 長崎海軍伝習所(ながさきかいぐん でんしゅうじょ):幕末の海軍の教育機関。伝習生は勝海舟ら幕臣ほか、諸藩からも募る。安政六年(1859)二月、四年で廃止も海軍、海運の発展に貢献した。

参考文献

黒船来航史

1.大航海時代 2.ペリー来航前の黒船史 3.ペリーとは

4.ペリー来航 5.阿部正弘の決断 6.日米修好通商条約

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