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黒船来航史その1

大航海時代とは 舞台は大西洋から太平洋へ

関係地図

第一次・二次大航海時代

黒船といえば、多くの人がペリー来航を思い浮かべると思います。然しながらペリーより62年も前に、アメリカ船が初来日。瓦版黒船来航12の解読にあたり、黒船来航の歴史を学び直しましょう。

15~16世紀

第一次大航海時代

スペインやポルトガルを中心とする西欧諸国がアメリカ大陸、アフリカ、アジアをはじめ各地に植民・略奪・交易によって進出し、世界を一体化させた時代。

コロンブスのアメリカ大陸到達やバスコ・ダ・ガマの喜望峰経由のインド航路発見などが有名です。この頃、太平洋は知られていましたが僅かな情報だけでした。

このころ中国明朝とその周辺諸国は冊封体制にあって、朝貢として明へ自国の土産を献上、これに附随して民間貿易も活発化。琉球王国はマラッカ(マレーシア)と並んでアジア一大中継交易として活躍しました。

一方、日本は豊臣秀吉が明制圧を目論み朝鮮半島に侵入。文禄・慶長の役がおこりました。

18世紀

第二次大航海時代

ロシアがシベリアに進出。続いて太平洋探検隊としてイギリス・フランスが競いました。科学的発見が目的で、イギリスのダーウィン自身も太平洋探検隊の船に乗り『進化論』を発表。

またイギリスは、クロノメーターという船の上でも刻む時計の発明がありました。アメリカはこのころ東アジア貿易で、イギリスに後れを取っていました。

いずれにせよ、15~16世紀の第一次大航海時代は大西洋が、第二次大航海時代は太平洋へと舞台が移りました。

初来日のアメリカ船

1791年4月(寛政三/ペリー来航62年前)紀伊大島(現 和歌山県)にアメリカの船が初めて日本に来航。民間の貿易証人でレディ・ワシントン号とグレイス号二隻で、ラッコの毛皮を売りに来ました。

ロシアで気球を見た日本人

また逆に1783年(天明二年一二月)伊勢国の船頭・大黒屋光太夫(だいこくや-こうだゆう)乗組員一七人が難船してロシアに滞留。光太夫含め三名帰国、『北槎聞略』(ほくさぶんりゃく)1794年(寛政六)は彼らの記録。

一方、1793(寛政五)石巻(仙台藩領)の廻船若宮丸乗組員一六人が難船してロシアに漂着。イルクーツクの役所で居残った光太夫船員・新蔵に会う。ロシア人宅で手伝いなどして滞留八年目。王命下り、ラシャの衣服、股引、靴を与えられ、二人乗り四頭の馬車七つでモスクワを経由し、新都ペテンブルクへ。

新蔵の通訳もと、国王に謁見。この直後、この国でも始めてらしい気球を見物。帰国の海路数か月、津太夫(つだゆう)含む日本人四名は、ロシア使節レザノフ[]と共に長崎に至る。別れの際は、再会を期することができないと泣き悲しみました。

この見聞は、大槻玄沢監修『環海異聞』(かんかいぶん)1807年(文化四)にまとめられています。

こうして第二次大航海時代という大きな波に、意思に反して日本ものみ込まれてゆくのでした…

  

補註

レザノフ:Rezanov,Nikolai Petrovich(1764(宝暦一三).4.8~1807(文化四).3.13)。ロシアの実業家で遣日使節に選ばれる。津太夫ら四名を伴い長崎に来航。ここで半年間待たされた挙句、通商を拒否される。これに対し、部下に命じて樺太、択捉(えとろふ)島襲撃を示唆したが、帰国の途でシベリアで没する。

参考文献

後藤敦史『忘れられた黒船』(講談社、2017年)

黒船来航史

1.大航海時代 2.ペリー来航前の黒船史 3.ペリーとは

4.ペリー来航 5.阿部正弘の決断 6.日米修好通商条約

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