ペリーとは
プロフィール
ペリーこと本名シュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry:1794(寛政六).4.10-1858(安政五).3.4)は、米国の海軍軍人。
蒸気海軍の父と呼ばれ、蒸気艦を積極的に推進した人物。ペリー艦隊の公式記録に『遠征記』。ペリー艦隊とはすなわち東インド艦隊のことで、ペリーの対日外交は同艦隊司令長官として特別に与えられた任務でした。
東インド艦隊
東インド艦隊とは、1835年(天保六)に香港、広東(かんとん)、マカオを結ぶ内港をステーションとして常駐することとなった艦隊。中国や東南アジア海域における米国人の生命や財産、あるいは貿易の保護を主な任務としていました。
また米国は、東アジア貿易で英国に対抗。米国が日本に開国を求める理由は、蒸気船燃料の石炭、捕鯨船員たちの避難港、新たな市場として、などでした。
ペリーは、日本開国事業を歴史的な偉業として達成しようと考えたため、主要任務を対日外交に位置付け。日本のオランダ商館の医員であったシーボルトの著作を読み込み、日本との通商関係にあるオランダの米国公使にも協力を要請。準備に余念がないのでした。
太平天国の乱
1853年(嘉永六)4月、ペリー艦隊すなわち東インド艦隊は中国に到達。このころ中国は太平天国の乱により情勢が不安定。太平天国とは、清朝打倒を宣言して洪秀全が建てた国で、南京を陥れ天京と改めて首都としました。
駐清弁務官マーシャルは、東インド艦隊司令長官のペリーに米国人の保護を要請。しかし対日外交に意欲を燃やすペリーは、艦隊四隻を率いて日本へ向けて出発してしまいました。
同年3月17日にリンゴールド率いる米国の測量艦隊ヴィンセンス号が香港に到着。測量艦隊とは、航路太平洋航路拡大および海図(かいず)作製を任務とする艦隊です。
東インド艦隊不在によりリンゴールドの測量艦隊が東インド艦隊の任務を引き受けるかたちで、清にいる米国人の保護に努めました。これによりペリーのごとく熱心に準備していたリンゴールドの測量事業は中断を余儀なくされました。
参考文献
後藤敦史『忘れられた黒船』(講談社、2017年)
黒船来航史
1.大航海時代 2.ペリー来航前の黒船史 3.ペリーとは