史料
表紙、扉絵、本文冒頭
扉絵の歌:悟きかし、これそ禅機の無門関、ゆらり凡ては一物もなし 梅屋 [註]
解説
安政の地震とは
安政二年(1855)一〇月二日の夜四ッ時(10時ごろ)突如、江戸に推定マグニチュード6.9の直下型の地震が襲いました。世にいわれる安政の大地震で、寝入って間もない江戸っ子たちの度肝を抜きました。
震源はほぼ江戸の真ん中、しかも浅い所とみえ強烈に揺れました。震度5の範囲は関東一円に及び、震度6~7の地域は限定的ですがそこでの被害は甚大で深川(江東区)、本所(墨田区)、浅草・下谷(台東区)などを中心に死者は四千人から一万人以上とも言われてます。
水戸藩の儒学者・藤田東湖(とうこ)もこのとき圧死。人的被害の約九〇パーセントは圧死で、当時の江戸町人人口の一〇〇人あたり約一人に達しました。また倒壊家屋は約一万戸と被害は大変大きいものでした。
これに対し相模湾を震源とする大正一二年(1923)九月一日一一時五八分の関東大震災はマグニチュード7.9、東京市の圧死者は人口一千人あたり一人未満。安政の地震は建物被害や死者数から、関東大震災よりも遥かに大きいものだったと推定されます。
この地震の二年前の嘉永六年(1853)には、ペリー率いる東インド艦隊が来日、翌年に日米和親条約が締結され、そこにこの地震があったので、幕府そのものの基礎を動揺せしめる一因ともなりました。
当時の老中首座は阿部正弘。正弘は震災後間もなく佐倉藩主・堀田正睦(まさよし)に老中首座と対外関係の全権を譲って、翌年三九歳で病死しました。
安政見聞誌とは
『安政見聞誌』(あんせい-けんもんし)全三冊は、安政地震のルポタージュで、所々に挿絵が入っているのが特徴です。
この本は書肆(しょし:本屋)三河屋鉄五郎の注文により、渓斎英泉門下の英寿(ひでとし)の助筆を得て、三昼夜で脱稿。無許可出版の罪科により、版元と英寿は手鎖の刑を受けました。一方の仮名書魯文(かながき-ろぶん)は署名しなかったため、罪を免れました。
刑満ちたのち英寿は無心に来て、貯えのない魯文を悩ましました。次項より本書を通して、地震の詳細を明らかにしていきます。
補註
ゆ「らり」(良罹)の二字の解読について確証がもてない。禅機(ぜんき):禅者の自在なはたらき、無門関(むもんかん):禅宗で珍重された書、凡:すべ(て)。
参考文献
- 東京都江戸東京博物館 学芸課展示係 編『図表でみる江戸・東京の世界』(東京都江戸東京博物館、1998年)「安政江戸地震[1855年]地震分布」106頁、「安政江戸地震と関東大震災の比較」108頁
- 荒川秀俊「安政の地震」『国史大辞典1』(吉川弘文館、1979年)384-385頁
- 中山榮之輔「安政の巨大地震と瓦版」稲垣史生(監修)『江戸の大変 かわら版〈天の巻〉地震・雷・火事・怪物』(平凡社、1995年)69-77頁
史料情報
- 表題:安政見聞誌 上
- 年代:-(江戸時代)/一勇斎国芳・一度斎芳綱・鶯斎国周 画
- 埼玉県立文書館寄託 小室家2743
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安政見聞誌
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