荻生徂徠『政談』巻之二
1.早朝出勤する人間
「間に合わせると云うは、上の人の我儘なる機嫌に合わせることにて、下たる者ただ騒ぎ立て、走り廻るを取りなしのよきこととする故(ゆえ)、何も彼もせわしなき[註1]計らいだ。
これよりして一切の号令等の類まで皆、下の思いやりなく[註2]、忽ちの内に下知の通りに成るを奉公とすること[註3]は、上たる役人・奉行の風俗である。
たとえば四ツ時(朝10時)に罷出よ云う刻付これ有る召喚状に、五半(いつつはん:朝9時)時に到着す。これは道の遠近を知らず、事の緩急の了簡無き故(ゆえ)このようである。」
2.何故せわしないのか
「昔の武士は兼ねて心掛けよく[註4]、左様のことが有っても、手詰まりこれ無き様に了簡支度して置いたが、今時の武家は兼ての支度思掛けもこれ無きに、不思議に間に合うことは、右に(前述)云ったように(江戸が)自由便利なる故、金さえあれば如何様の火急なる事も皆間に合う。
その火急なるに乗じて利を取らんと、商人どもは物を俄かに高値にすれども、兎角に間に合わせなければならぬ事ゆえ、値段の高下にも構わず買調えて間に合わせる。これは今の武家の風俗となり、左様に急なることになくても、何事も兼ねて心掛け支度することはない。
譬(たとえ)ば出掛けて衣服を調べてみるに、袴のくくりに緒なし、足皮(あしかわ:刀を腰にくくりつける皮ひも)切れたとて、急に中間(ちゅうげん,武家奉公人)を走らせ町にて買う。
故に高値なるを買って来てもとんちゃくなく、間に合ったりと悦び、明日の出仕に下々の合羽見苦しと夜に成りて言えば、急に人を走らかして買調える。」
3.質も利用
「間に合わさねば主人殊の外不機嫌になるので[註5]、女房は用人頭などに相談して、質を置いて間に合わせ、主人に知らせない。主人は知っても詮方無いので、知らなかったことにしておく。
またその質に入れたる品が急に必要な時、狼狽して他の物と取替えるので、高利と成って、一度質を入れると十中八九始終これ困るを免れない。」
補註
『論語』篇名 文章番号
- 何も彼もせわしなき…子路17「速やかならんと欲すること毋(なか)れ」
- 下の思いやりなく…八佾26「上(かみ)に居て寛(かん)ならず」
- 下知の通りに成る…先進24「道を以つて君(きみ)に事(つか)へ、不可なれば則ち止む」
- 兼ねて心掛けよく…憲問14「義にして然る後(のち)に取る」
- 間に合わさねば…述而36「君子は担(たん)として蕩蕩(たうたう)たり」
参考文献
現代語訳について
当頁『政談』の現代語訳は、辻達也 校注「政談」『日本思想大系36 荻生徂徠』(岩波書店、1973年)をもとに当サイトの運営者が現代語訳。徂徠節を尊重し、直訳を心掛けた。また、尾藤正英(翻訳)『荻生徂徠「政談」』(講談社、2013年)も参考にした。
補註について
補註は当サイト独自に平岡武夫『全釈漢文大系 第一巻 論語』(集英社、1980年 )を参照して附した。
荻生徂徠『政談』
1.荻生徂徠 2.本書概要 3.武士の非正規 4.旅宿暮らし
5.武士の貧困 6.医者 7.国替 8.外様譜代 9.国の困窮