荻生徂徠『政談』巻之二
1.誰も何も知らない

「田舎の家作は、山にて木を枯し置きて大工を呼びよせ、幾日もかかりて立てる故(ゆえ)、家丈夫にて年久しく堪える。
しかし御城下は何も彼も御城下の町にて買調え、例のせわしなき風俗にて急に立てる。殊に主人たる人も、その家の長(おとな:家老、老臣)も何も知らず、商工任せにて、年久しく出入りしたる大工に見積もらせれば、彼の大工も己が家を立たることは終に無くして、人の家を立てたる計りの有能な者だ。
己が頼んだ材木屋に見積もってもらい間に合わす故、何も彼も皆商人任せ。その商人も御城下に成長したる者にて、材木の出所も知らない。唯御城下にて売買上の巧者(有能な者)である。
これ依り公儀の請負等するとも、畢竟皆本を知らざる人の取り捌きだ[註1]。商人も知らず。それを取り捌く御役人も知らない。
2.世渡りに追われる大工
有用な者と云うは唯御城下にて左様なることを仕り馴れたると言う迄[註2]。その上に立つ御役人は唯金の多く入(い)らぬ了簡をして、目付を附け、邪推を廻して[註3]、下の者に私欲をさせまじとする迄のこと。
自身は何れも知らざる故、畢竟の所、商人に欺かれて[註4]、御城下の普請益々悪くなりて、その損害は言うに計り知れない。昔の大工は家に巻物が伝わって、堅く法を守りしが、今の大工は渡世に逐(おわ)れて、少しでも細工を多く請取らんとする故、細工も次第に下手に成りて、家居も早く損ずる。
3.手間暇かけた昔

器物も又このようだ。某が家に、父方の曾祖母の伊勢にて拵え置きたる朱塗りの椀の家具がある。祖父より父へ伝え、父より伝わって今に有り。百年に余れども朱色も替わること無く、疵も付かず。其丈夫なること甚だし。
其田舎(上総国)にて百姓の重箱など拵(こしらえ)るを見たるに、塗師は不自由である。塗師一人にて上総の国中を方々(ほうぼう)雇われ歩きて、細工する。一か所に二十日も三十日も居りてぬり、又脇へ歩き行きて細工する。
始め仕り掛け置きたる物の乾きたる時分を考え置きて来て、蒔絵をする。その漆も別に買調えて置きて塗らせ、下地をも兼ねて拵え置きたる故、何も彼も望みの様に拵えて丈夫である。」
4.飛騨の匠

「又上総国(山武郡)松ガ谷と言う村に(勝覚寺)釈迦堂あり。飛騨の匠が建たると言い伝えたり。棟札(むなふだ)を見れば四五百年にもなるべし[註5]。
飛騨の匠と云うるは、総じて飛騨より出る大工だ。その時分上総の国に大工なし。飛騨大工は上京して公役を勤めるもあり、国々を廻るもあり。
先々にて普請を請負うと木を取り、それより五里も十里も脇へ行き、段々先より先へ往(ゆ)きて、右(前述)の最初に請負った普請の木を得ると枯れたる時分に廻り来て、木を削り立て、得ると拵え、又脇へ行き、その削り置きたるを得ると枯れたる時分に来る故、一か所の普請に二年も三年も懸かる。」
5.急に間に合わせる江戸
「武家が知行所に居住すれば、諸事このように不自由なる故、人の心を練り、何事も年をつみ、心掛けて成就することになる。しかし御城下は自由便利な上に世話しなく、急に間に合わせる風にて、何事も皆当座に賄うに事をする故、上下の損失積りて計り知れないと知るべし[註6]。」
補註
『論語』篇名 文章番号
- 本を知らざる人の…学而02「君子は本(もと)を務む。本立ちて道(みち)生ず」
- 有用な者と云うは…衛霊公34「小人は大受(たいじゅ)す可からずして、小知(しょうち)す可し」
- 邪推を廻して…為政02「詩三百、一言(いちごん)以つて之れを蔽(おほ)ふ、曰く思ひ邪(よこしま)無し」
- 商人に欺かれて…雍也26「欺く可(べき)なり。罔(し)ふ可(べ)からざるなり」
- 四五百年にもなる…子罕29「歳寒くして、然る後(のち)に松柏(しょうはく)の彫(しぼ)むに後(おく)るることを知る」
- 何事も皆当座に賄うに…衛霊公27「小(せう)忍びざれば、則ち大謀(たいぼう)を乱る」
参考文献
現代語訳について
当頁『政談』の現代語訳は、辻達也 校注「政談」『日本思想大系36 荻生徂徠』(岩波書店、1973年)をもとに当サイトの運営者が現代語訳。徂徠節を尊重し、直訳を心掛けた。また尾藤正英(翻訳)『荻生徂徠「政談」』(講談社、2013年)も参考にした。
補註について
補註は当サイト独自に平岡武夫『全釈漢文大系 第一巻 論語』(集英社、1980年 )を参照して附した。
政談 目次
1.荻生徂徠 2.本書概要 3.武士の非正規 4.旅宿暮らし
5.武士の貧困 6.医者 7.国替 8.外様譜代 9.国の困窮