概要
無宿とは、村の宗門人別帳(戸籍)から外された者のこと。江戸時代中後期、無宿が社会問題となりました。
無宿は、長脇差(ながわきざし)・鑓(やり)・鉄砲で武装して横行、治安が悪化しました。ちなみに百姓に対する刀狩は、遡ること秀吉の頃から鉄砲も含みます。
背景、理由
関東で無宿が横行し、徒党を組んで横行するようになるのは、自然災害などを背景に天明・寛政から文化・文政期(1804~1830)にかけての村落の荒廃が最も深刻化した時期でもありました。
貧窮による離村などから始まり、欠落・勘当による親類関係の断絶、追放刑の処せらた者は居村・居町に居住できず人別帳から削除されるなどの理由からも無宿となります。周りが何とか社会復帰させようと奮闘するも、村から無宿を出してしまった例として酒狂の喜平次(寛政一〇年:1798)をご参照ください。
対策
無宿の増加は本百姓崩壊、幕藩体制の危機を意味します。かくして幕府は無宿を取り締まるため、文化二年(1805)関東取締出役(八州廻り)設置。続いて同一〇年(1827)文政の改革の法令で無宿について、以下を原則としました。
- 武装集団化して横行する者は死罪。
- 罪をおかした悪党は組合村で対応。
- 無実の無宿・有宿は帰農させること。
- 村で無宿を作らないこと。
考察
無宿というのは言ってみれば社会的弱者。無宿が出ないように、儒者の荻生徂徠がちょうど百年前に『政談』述べているように村の立て直し(享保一二年:1727)を図ればいいものを、何故か無宿の「取り締まり」が優先されています。
『論語』に「子曰く、政治で導き、刑罰でしめるならば、人民はひっかかりしなければよいとして、非を恥じる心を失う。徳で導き、礼でしめるならば、恥じる心を失わず、そしてなついて来る。」
文化文政後の天保期では冷害に見舞われ、各地で打ちこわしが起こり、幕府は更に取り締まり厳しい天保の改革に踏み切るのでした。
参考文献
- 『所沢市史上』(所沢市、1991年)
- 平岡武夫『全釈漢文大系 第一巻 論語』(集英社、1980年 )「為政03」57頁