くずし字で楽しむ江戸時代の暮らしと文化

古文書ネット

  1. HOME
  2. 入門講座
  3. 近代文学で覚える異体字と歴史的仮名遣い

近代文学で覚える異体字と歴史的仮名遣いその2

夏目漱石「こゝろ」

戀(こひ)をしたくはありませんか

夏目漱石「こゝろ」より「先生と私 十二」一部抜粋

原文

「戀(こひ)をしたくはありませんか」
私(わたくし)は答(こた)へなかつた。

「したくない事(こと)はないでせう」
「えゝ」

「君(きみ)は今(いま)あの男(をとこ)と女(をんな)を見(み)て、冷評(ひやか)しましたね。あの冷評(ひやかし)のうちには君(きみ)が戀(こひ)を求(もと)めながら相手(あひて)を得られないといふ不快(ふくわい)の聲(こゑ)が交(まじ)つてゐませう」

「そんな風(ふう)に聞えましたか」

「聞(き)こえました。戀(こひ)の滿足(まんぞく)を味(あぢ)わつてゐる人はもつと暖(あたゝ)かい聲(こゑ)を出すものです。然(しか)し……然(しか)し君(きみ)、戀(こひ)は罪惡(ざいあく)ですよ。解(わか)つてゐますか」[註1]

現代語訳

「恋をしたくはありませんか」
私は答えなかった。

「したくない事はないでしょう」
「ええ」

「君は今あの男と女を見て、冷やかしましたね。あの冷やかしのうちには君が恋を求めながら相手を得られないという不快の声が交じっていましょう」

「そんな風に聞えましたか」

「聞こえました。恋の満足を味わっている人はもっと暖かい声を出すものです。しかし……しかし君、恋は罪悪ですよ。解っていますか」

出てきた異体字を覚えよう

滿
恋(こい) 声(こえ) 満(マン) 悪(アク)
恋は戀の略体。心+攣(ひく)。心がひかれる、こいしく思うの意。 声は聲の略体。耳+殸(けい)。耳にきこえる中国古代の打楽器である磬(けい)の音から、こえの意。 満は滿の略体。滿は形声。水+満(さんずい省)(→曼、のびひろがる)。水が一杯に満ちるの意。 悪は惡の略体。惡は形声。心+亞(租神の鎮座するところ・墓)。慎しみすぎることから、わるい意。[註2]

歴史的仮名遣いのフレーズを丸ごと覚えよう

「戀(こひ)をしたくはありませんか」

「したくない事(こと)はないでせう」

今回覚えておいてもらいたい歴史的仮名遣いは「先生」のセリフ、上記二つです。歴史的仮名遣いである「こひ」、「せう」は、現代と同じく「コイ」「ショー」と発音します。この原理は例えば「私は」と書いて「ワタシワ」と読む原理と同じです。

解説

夏目漱石の「こゝろ」は、学生である「私」が世間で名前が知られていない「先生」に鎌倉の海で偶然出逢い――正確には見つけ出した所から始まります。(ちなみにこゝろの「私」も「先生」も男性です。)

それからというもの「私」は何故か、「先生」にどうしても近づかなければいられないという感じがどこかに強く働いた為、度々先生の自宅を訪ねます。そして上記ぶんしやうは「先生」と「私」が上野に行き、二人が花の下で一対の男女を見た時の一場面です。

夏目漱石の「こゝろ」の初版(原文)は漢字に仮名がふられています。しかし漢字は異体字で、仮名は歴史的仮名遣いなので、なかなか読みづらいと思います。これはもう、慣れです。異体字と歴史的仮名遣いに触れながら、少しずつ慣れていきませう。

そしてあなたも戀(こひ)をしませう!……然(しか)し君、戀は罪惡ですよ。解つてゐますか?

  

補註

註1:遠藤祐注釈『日本近代文学大系〈27〉夏目漱石集 (1974年) 』(角川書店、1974年)より引用。

註2:小学館辞典編集部 『現代漢語例解辞典 』(小学館、1996年 )参考。

近代文学で覚える異体字と歴史的仮名遣い

1.はじめに/2.夏目漱石「こゝろ」/3.坂口安吾「堕落論」/4.葛西善蔵「子をつれて」

5.太宰治「待つ」/6.宮沢賢治「どんぐりと山猫」/7.高見順「あるリベラリスト」

関連記事

異体字一覧

1.異体字とは/2.異体字を覚えよう/3.異体字一覧その1 4.一覧その2 5.一覧その3

小学算術書

1.小学算術書とは/2.先生と生徒の数/3.茶碗、鶴、俵/4.算数に使う符号/5.旗、桃、傘

6.墨、靴/7.檎、魚、兎/8.机、見台等/9.小銃、屏風等/10.北斗七星、北極星