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夏目漱石『こゝろ』

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桜と青空

夏目漱石(1867-1916)『こゝろ』は大正三年(1914)朝日新聞に連載され、岩波書店より刊行された小説。当時の文章の書き方について、以下にみてみましょう。

原文(一部抜粋)

「戀(こひ)をしたくはありませんか」
私(わたくし)は答(こた)へなかつた。

「したくない事(こと)はないでせう」
「え

「君(きみ)は今(いま)あの男(をとこ)と女(をんな)を見(み)て、冷評(ひやか)しましたね。あの冷評(ひやかし)のうちには君(きみ)が戀(こひ)を求(もと)めながら相手(あひて)を得られないといふ不快(ふくわい)の聲(こ)が交(まじ)つてませう」

「そんな風(ふう)に聞えましたか」

「聞(き)こえました。戀(こひ)の滿足(まんぞく)を味(あぢ)わつてゐる人はもつと暖(あたゝ)かい聲(こゑ)を出すものです。然(しか)し……然(しか)し君(きみ)、戀(こひ)は罪惡(ざいあく)ですよ。解(わか)つてゐますか」[1]

現代語訳

「恋をしたくはありませんか」
私は答えなかった。

「したくない事はないでしょう」
「ええ」

「君は今あの男と女を見て、冷やかしましたね。あの冷やかしのうちには君が恋を求めながら相手を得られないという不快の声が交じっていましょう」

「そんな風に聞えましたか」

「聞こえました。恋の満足を味わっている人はもっと暖かい声を出すものです。しかし……しかし君、恋は罪悪ですよ。解っていますか」

解説

異体字(旧字)

  1. :恋(こい)/恋は戀の略体。心+攣(ひく)。心がひかれる、こいしく思うの意。
  2. :声(こえ)/声は聲の略体。耳+殸(けい)。耳にきこえる磬(けい/中国古代の打楽器)の音から、こえの意。
  3. 滿:満(マン)/満は滿の略体。滿は形声。水+満(さんずい省)(→曼、のびひろがる)。水が一杯に満ちるの意。
  4. 惡:悪(アク)/悪は惡の略体。惡は形声。心+亞(租神の鎮座するところ・墓)。慎しみすぎることから、わるい意。[2]

歴史的仮名遣い

「戀(こひ)をしたくはありませんか」「したくない事(こと)はないでせう」

上記抜粋の歴史的仮名遣い「こひ」「せう」は、現代と同じく「コイ」「ショー」と発音。「私は」と書いて「ワタシワ」と読む法則と同じです。

概要

漢字制限の歴史は古く、明治三三年(1900年)に漢字表の元祖「小学校令施行規則第三号表」(文科省)一二〇〇字が制定されました。

漱石の『こゝろ』はそれから約一五年後の大正三年(1914)の作品。学生である「私」が世間で名前が知られていない「先生」に鎌倉の海で偶然出逢い――正確には見つけ出した所から始まります。(ちなみに「私」も「先生」も男性。)

それからというもの「私」は何故か「先生」にどうしても近づかなければいられないという感じがどこかに強く働いたため、度々先生の自宅を訪ねます。上記文章は「先生」と「私」が上野に行き、二人が花の下で一対の男女を見た時の一場面。

『こゝろ』初版(原文)は漢字に仮名がふられています。しかし漢字は異体字(旧字)で、仮名は歴史的仮名遣いなので、なかなか読みづらいと思います。少しずつ慣れていきませう。

補註

  1. 遠藤祐 注釈『日本近代文学大系27 夏目漱石集』(角川書店、1974年)より引用。
  2. 林大(監修)『現代漢語例解辞典』(小学館、1996年 )参考。

近代文学

はじめに/漱石/葛西賢治太宰安吾高見

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