戦後の壁
仰々しいタイトルですが、古文書を始める理由は私含め概ねなんとなく、が大方ではないでしょうか。
戦後八〇年を迎えるにあたり、日頃よりテレビから戦争体験を語る方の減少が止まらないという、当たり前のことを嘆かれ聞かされるにおよび、ここに筆を投じ以ってキーボードをとりました。
本当に戦争を風化させたくなければ、読めないとか言っている場合ではありません。三尺の童子でもわかりそうなものですが、戦争体験を「語る」方は確実にいなくなるんです。
いつになったらテレビは、故人が遺された戦争体験を「読む」方の減少を心配してくれるのだろうか。意味がわかりませんが、テレビ自体が本質的に語るメディアだからなのかもしれない。自慢ではありませんが私は、今どきちゃんと?ネットよりもテレビを「見て」いるのであしからず。文科省には何も期待してない。
書き方の歴史で述べましたが、戦前と戦後で書字に違いがあります。現代人が戦前の書物にアクセスするのは技術的に難しい、ということ自体をまず明確にすることがとても大切なことだと思います。
実際、これを読まれている方はWEB上において活字体を読んでいるのであって、よしんば現代語であっても内容の如何に関わらず、「手書き」や「手記」を読むのは一般にしんどく感じられるはずです。
それはそれで戦後の常用漢字の登場により、戦前に限らず明治・江戸、時代問わず古文書は必要以上に専門的になってしまいました。
日々の暮らしの中で、くずし字や異体字(旧字)を目にすることがあるでしょうか。自分が思っている以上に馴染みないのが古文書であり、ゆえに私はこれを読むことを博(ひろ)く勧める、ということに実はそれほど熱心ではありません。読みたい!という方は古文書教室にて歓待していますが。
けだし読むのがしんどいから、難解だから読んではいけない法はないですし、むしろ今と違った昔の人の書き方に知性や魅力を感じる方もいるでしょう。
よしんば古文書が読めたにしても、特定の分野だけを局所的に更に深く…という以上に出て、他分野、国、時代へと博く学ぶ貪欲さを持たないと、逆に戦争について考える契機は遠のくでしょう。すなわち古文書が読めたからってもちろん、戦争に詳しいとか関心があるとかは全く別の問題だからです。
何事に関しても下手な横好きな私は、古文書を横にすると見た目アラビア語ぽい? 気がしてきた今日この頃。アラビア語は言うに及ばず英語含め外国語が全くダメなので、私の中でせめて昔の文章くらいは…というのはありました。そういえば戦前の手書きの文章ってちゃんと読めるのだろうか…。
補註
訳はリンク先の本に従ったが、コーランは読むといっても声に出して読むもの、らしいのです。当教室でも毎回、史料を受講生一人ずつ(こちらで割り振った箇所を)読誦(どくしょう)してもらうことに始まります。その理由は単に、前回のおさらい且つ読みが意外と難しいから。