戦後の壁
突然ですが、テレビで戦争体験を「語る」方の減少を嘆く声をちらほら聴きます。
然しながら、これと並行して故人が遺された戦争体験を「読む」方も減少しているのではないでしょうか。前者に比べ後者は、問題意識そのものも余りない気がします。
書き方の歴史で述べましたが、戦前と戦後で書字に違いがあります。現代人が戦前にアクセスするのは技術的に難しい、ということ自体をまず明確に、出発点にした方がようでしょう。
実際、これを読まれている方はWEB上において「活字」を読んでいるのであって、よしんば現代語であっても内容の如何に関わらず、「手書き」や「手記」を読むのは一般にしんどく感じられるはずです。
戦前に限らず明治・江戸、時代問わず古文書は非常に専門的で、きほん地域色の強い分野です。
実際、古文書の現物が手元にある人がどれ程いるでしょうか。日々の暮らしの中で、くずし字や異体字(旧字)を目にすることがあるでしょうか。自分が思っている以上に馴染みないのが古文書であり、故に私は古文書を読むことを博(ひろ)く勧める、ということは余りないです。
然しながら読むのがしんどいから、難解だから読んではいけない法はないですし、むしろ今と違った昔の人の書き方に知性や魅力を感じる方もいるでしょう。
よしんば古文書が読めたにしても、特定の分野だけを局所的に更に深く…という以上に出て、他分野、国、時代へと博く学ぶ貪欲さを持たないと、逆に戦争について考える契機は遠のくでしょう。
そんなわけで自慢じゃありませんが、何事に関しても下手な横好きの私は、古文書を横にすると見た目アラビア語ぽい?気がしてきた今日この頃です。
補註
訳はリンク先の本に従ったが、コーランは読むといっても声に出して読むもの、らしいのです。当教室でも毎回、史料を受講生一人ずつ(こちらで割り振った箇所を)読誦(どくしょう)してもらうことに始まります。その理由は単に、前回のおさらい且つ読みが意外と難しいから。