素朴な疑問
私は古文書初学者のころ、学習しながら思っていたことがありました。くずし字が読めても、書けないのは恥だと。くずし字(草書)が読めるのに書けないというのは理屈が通らないと。
結論からいうと、くずし字が書けなくても勿論全く問題ありません[註1]。手習いとは習字のことですが、令和にあって書ける人は相当古風な人か変人でしょう。私の地元に中国まで修業しに行った書の大家がいるのですが、この方はくずし字を通り越して篆書(てんしょ)はもちろん甲骨文字まで書くことができるのでした。
さて、くずし字を書きながら覚えるというのも一つの学習法だとは思いますが、くずし字を書くのって結構難しいです。現行の漢字と字体が異なるので、何度も練習しないとなかなか書けるようにならないと思います。
また、一つの漢字に字体が異なるくずし字が複数あります。よってくずし字辞典を開いた際、どの字体のくずし字を優先的に覚えるべきなのか、自分で判断できないと書く練習といっても要領を得ないでしょう。
私の教室には書道をされている方がおられ、くずし字が書けるようになりたいという動機で通学されているので、くずし字は書きながら覚えているようです。
私がくずし字を書く練習を始めたのは、講師をすることになって必要に迫られてから。よって古文書を学び始めてから一〇年以上経ってからになります。それで遅きに失したと感じることは特にありません。
書く練習
書く練習をする場合、漢字練習を一からやり直しくらいの気持ちで挑むとよいでしょう[註2]。小学生の頃、漢字を書けるようになるために、それなりに一生懸命練習したかと思います。くずし字も同じです。
違いといえば小学校から現在に至るまでは、書き順は余り気にしたことがなかったと思います。これに対してくずし字は、必然的に書き順に注意が払われます。
練習の際は筆ペンなどを使うが正しいと思いますが、私はシャーペン。結局、教室でホワイトボードで書く際に、マーカーになってしまうので。それでくずし字を書くのに恐らく黒板×チョークはつらいが、ホワイトボード×マーカーは非常に最適という発見。
…はさておき結論として、特別な事情もない限り、書くことに関してそこまで生真面目に考える必要はないでしょう。
補註
註1:くずし字を書く理由
本項序文で取り上げたホフマン時代のドイツは、"誰もが「端正かつ正確」な結合という美学を目指すようになる。ブロック体で書くような者は、不可分の個人(イン・ディヴィドゥウム)ではなかろう。それゆえ、この[不可分の個人という]存在は、一九〇〇年のタイプライター活字と意匠活字が出てくると消え去ることにもなる。" フリードリヒ・キットラー『書き取りシステム1800・1900』(インスクリプト、2021年)165頁
註2:そもそも常用漢字は書けるのか
「これまでは必要な漢字をすべて手で書かねばならなかった。」が「学校で課せられた作文や読書感想文などできる限り避け続けてきた人たちが、しかしいま」携帯端末を使って「日がな一日、日本語の文章を書きまくっている」時代である。かくして「これからは、かならず手書きで書かなければならない一群の基本的な漢字群と、正しい読み方と使い方を把握さえできていれば、必ずしも手で正確に書けなくてもよい漢字群、というように、漢字全体を二層の構造にわけ、そのどちらをも常用漢字という枠で包括することを視野にいれるべきであろう」阿辻哲次『漢字の社会史』(吉川弘文館、2012年)「補論 一 新常用漢字表のあり方について」221、223-224頁
古文書概論
10.書けなくてもいい? 11.漢文との違い
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