原文(一部抜粋)
一體、私は、誰を待つてゐるのだらう。
はつきりした形のものは何も無い。ただ、もやもやしてゐる。けれども、私は待つてゐる。大戰争がはじまつてからは、每日、每日、お買ひ物の歸りには驛に立ち寄り、この冷たいベンチに腰をかけて、待つてゐる。
誰か、ひとり、笑つて私に聲を掛ける。おお、こはい。ああ、困る。私の待つてゐるのは、あなたではない。
それでは一體、私は誰を待つてゐるのだらう。旦那さま。ちがふ。戀人。ちがひます。お友達。いやだ。お金。まさか。亡靈。おお、いやだ。
もつとなごやかな、ぱつと明るい、素晴らしいもの。なんだか、わからない。たとへば春のやうなもの。いや、ちがふ。靑葉。五月。麥畑を流れる淸水。やつぱり、ちがふ。ああ、けれども私は待つてゐるのです。[註1]
解説
異体字
- 體:体(タイ)/葛西『子をつれて』にて既出の異体字。
- 戰:戦(セン)/戦は戰の略体。戈(武器)+單(武器)。武器を用いてたたかう意。
- 歸:帰(かえる)/帰は歸の略体。ほうきをもち本来あるべき位置につく、とつぐの意。のちに歩いて戻る、かえる意を表わすようになったと言われる。
- 驛:駅(エキ)/駅は驛の略体。馬+睪(次々につながる)。代え馬を用意しておく宿場、えきの意味。
- 聲:声(こえ)/漱石『こゝろ』にて既出の異体字。
- 戀:恋(こい)/前掲書にて既出の異体字。
- 靈:霊(レイ)/霊は靈の略体。霊+霝(あまごいをする)。雨ごいをするみこの意。転じて、かみ・こうごうしい意。
- 麥:麦(むぎ)/麥は、穂を左右に実らせた植物の象形と、足の象形を結合したもの。足を加える意味は、天また遠方からもたされた意から。[註2]
歴史的仮名遣い
「私の待つてゐるのは、あなたではない。それでは一體、私は誰を待つてゐるのだらう。」
小さい「っ」は、歴史的仮名遣いでは大きい「つ」で書きます。「ゐ」は「イ」と発音し、現代仮名遣いでは「い」と書きます。「だらう」は、現代と同じく「ダロー」と発音。「私は」と書いて「ワタシワ」と読む法則と同じです。
概要
漢字制限の歴史は古く、昭和六年(1931)に「修正常用漢字表」(臨時国語調査会)一八五八字が制定されました。それから約一〇年後の同一七年(1942)の作品が、太宰治の『待つ』です。
主人公である二十(はたち)の娘が駅で何かを、誰かを、待っているというだけのとても短い小説です。
しかし読んだ後は、描かれている駅の風景と主人公の気持ちが映像として浮かび上がるような、何とも言えない余韻が残る作品です。ただ一点、上記原文の、待っているものの否定の中で「お金。まさか。」って…葛西善蔵もこの部分は多分驚くだらう。