現代語訳
○倭姫命(やまとひめの-みこと)
よわい五百歳と言う。
垂仁(すいにん)帝の第二皇女である。天照大神のお告げを受けて、伊勢国に至り、五十鈴(いすず)川の上に皇居をおく。今の内宮(ないくう:三重県 皇大神宮)はこれである。
その後、またお告げがあって豊受(とようけ)大神を鎮坐する。今の外宮(げくう:三重県 豊受大神宮)はこれである。
○気長足姫(おきながたらし-ひめ)天皇
仲哀(ちゅうあい)天皇の后(きさき)である。天皇がお亡くなりになってから、皇后は仮の男の姿となり、三韓を撃たれた。御功績は人の知るところである。即ち神功皇后のことである。
○衣通姫(そとおり-ひめ)
允恭(いんぎょう)帝の后にて、稚渟毛二岐(わかぬけふたまたの)皇子の妻である。帝の寵を得て藤原宮におられた。
お容(かたち)うるわしく(衣を通して)光り輝くので衣通姫(そとほり-ひめ)と言う。帝を恋い慕い、ささかに(蜘蛛)の歌を詠んで、のちに紀伊国(和歌山県)玉津島明神と崇められる。和歌三神の一人である。
>>原文(史料解読文)
解説
列女伝
『女大学』(女大学栄文庫)の巻頭を飾るのが当史料。歴史上の女性三人――よわい五百歳の倭姫命、三韓征伐の神功皇后、史料では伏せられていますが兄と情を交わしてしまう衣通姫が紹介されています。
日本の女訓書は、中国前漢の学者・劉向(りゅうきょう)撰『列女伝』が原点。この書は才識や行動力をもつ女性だけでなく、悪女の見本も取り上げて論評を付した、中国史上最初の後宮女性用の教訓書でもあります。
かくして当『女大学』では、髪・化粧や音楽活動などは節度を守れとし、安産の秘訣として妊娠中の読み物として「列女の伝」を挙げています。
荻生徂徠先生『太平策』に曰く「民間の輩には、孝悌忠信を知らしむるより外の事は入らざるなり。孝経・列女伝・三綱行実の類を出づべからず」
朝ドラはただの列女伝。――なんて思ったことありませんよ?
原文(史料解読文)
○倭姫命(やまとひめの-みこと) 寿五百歳と云
垂仁帝(すゐにん-てい)第二の皇女(わうちよ)也、天照大神の託宣(たくせん)をうけて伊勢国に至(いた)り、五十鈴川(いすゞかは)の上に宮居(みやゐ)を奠(おく)、今の内宮是也。
その後また託宣あつて、豊受(とようけ)大神を鎮坐(ちんざ)す。今の外宮(げくう)是なり
○気長足姫(いきなかたらし-ひめ)天皇
仲哀(ちゆうあふ)天皇の后(きさき)也、天皇かくれましてより、后宮(こうぐう)仮(かり)に男の姿(すがた)となり、三韓(かん)と撃(うち)給ふ、御功績(みいさを)は、人の知る処、則、神功后宮(じんこう-こうぐう)是なり
○衣通姫(そとほり-ひめ)
允恭帝(いんきよう-てい)の妃にて、稚渟毛二岐皇子(わかぬけふたまたの-わうし)の女也、帝(みかど)の寵(ちよう)を得て、藤原宮に居給ふ
御容(かたち)うるはしく、光(ひか)りごほる、因(よつ)て衣通姫(そとほり-ひめ)と云、帝を恋(こい)奉りて、さゝかにの歌を詠ず後、紀伊国・玉津島明神と崇(あが)め奉り和歌(わか)三神の一也
史料情報
- 表題:女大学栄文庫
- 年代:嘉永4. 8.(1851)/栄久堂 山本平吉 梓
- 埼玉県立文書館収蔵 小室家文書2342
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