原文
右頁:はるは はなみ、左:なつは すゞみ
MEMO
右頁「はる」の「る」が「は」と合体して少々解読しづらくなってます。「はなみ」の「は」は「者」を、「な」は「奈」をくずした変体仮名。左頁「なつ」の「な」も「奈」をくずした変体仮名。「すゞみ」の「す」は「春」をくずした変体仮名で、前の字を繰り返す記号「ゝ」に濁点をつけて「すずみ」と読みます。
解説
花見
江戸時代、三月三日(現行暦二月初)の雛祭りが終わると花見の本番。梅よりも桜を愛でるようになったのは明治以降。史料挿絵も桜ではなく梅を描いているように見えます。
江戸では桜のほか桃、梨、山吹、つつじなども咲き揃います。花見では文字通り貴賤、老若男女、男女入り混じって、春の一日を飲んで歌って騒ぎました。また四~五日は奉公人年季交代にあたります。
天正九年(1581)二月二八日、正親町天皇を迎えて、天下(京都)御馬揃(織田騎馬軍団のパレード)を行ったときの、黒の南蛮笠、芦毛の早馬に乗った信長の姿。唐冠をつけ高砂大夫もどきの華麗な出立でしたが、その首筋には梅花一折をさしていました(『信長公記』)。
涼み
陰暦五月も半ばも過ぎると、江戸は蒸すような暑さに見舞われはじめ、涼を求めて川辺や海岸などに出かける人がいました。二八日、花火の大音響とともに告げられるのは両国の川開き。
夏祭りの締めくくりは六月一五日の山王祭。土用の丑の日には鰻を食べて力をつけました。
また江戸では七月二六日の二十六夜待ち(にじゅうろくや‐まち)が盛ん。この日、月は三つに分かれて輝き、その光の中に阿弥陀三尊が現れると言います。三尊を拝むため、人々は高台や川辺など月の名所に集まり、あるいは船を浮かべたりして、月の出を待ちました。芝高輪の海辺や湯島・神田の高台が賑わいました。
参考文献
- 佐藤要人 監修・藤原千恵子 編集『図説 浮世絵に見る江戸の歳時記』(河出書房新社、1997年)
- 花咲一男 監修『大江戸ものしり図鑑』(主婦と生活社、2000年)
- 米原正義『天下一名人 千利休』(淡交社、1993)「名物狩り_第三章 利休と信長と」87頁
史料情報
- 表題:絵入知慧の環 初編上
- 年代:明治6.5(1873)/古川正雄 著
- 埼玉県立文書館寄託 小室家文書4197
- 当サイトは同館から掲載許可を頂いてます。
- ※無断転載を禁止します。
絵入智慧の環
1.概論 2.にはとり 3.つくゑ 4.ゐのしゝ 5.すゞめ 6.数字