解読文(枠内)
- 甲子:一月廿七日、三月廿八日、五月廿七日、七月廿六日、九月廿四日、十一月廿三日
- 庚申:一月廿三日、三月廿四日、五月廿三日、七月廿二日、九月廿日、十一月十九日
解説
甲子(きのえね)、庚申(こうしん)は干支のお祭りで、その内容は同年旧暦(太陰暦)に書きました。
ところで江戸時代の伊勢暦(旧暦)には甲子・庚申は記載はありません。何故史料・引札暦(現行暦)に見られるのか。その経緯について、明治改暦から探っていきたいと思います。
改暦の意外な理由
明治政府は明治五年一一月九日に、突如改暦の詔書(しょうしょ)を発表。同時に太政官布告を出し、来る一二月三日をもって明治六年(1873)一月一日にすること、時刻法を従来の一日十二辰刻制から、一日二四時間の定時制に切り換えることを布達しました。
改暦の発表は、庶民はもとより官吏にとっても寝耳に水。新暦実施まで残り二三日。郵便制度も開設されて間もなく、全国に伝達するにも時間もありません。そこで政府は、明治六年暦は誰でも出願によって許可すると発表。それにしても、何故慌てて改暦を断行したのでしょうか。
改暦推進者は大隈重信参議。のちに大隈は、改暦の原因は実は財政問題にあったと告白(大隈伯昔日譚)。明治政府は、あいつぐ新政策の実施で火の車。政府要人が旧暦の明治六年暦を見て、閏(うるう)六月があったことに驚きました。
このままだと来年は月給を一三回払わなければなりません。それだけの財政的余裕がなかったのでした。
新しい吉凶の登場
改暦以後の太陽暦は、一切の迷信的暦注を排除。しかし民間では、吉凶付きの暦注に対する強い要求がありました。かくして干支のお祭り、六曜(ろくよう:先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口)、九星(きゅうせい:易において方角により吉凶を占う九つの星)など新たに民間暦に記載されるようになりました。
参考文献
松井吉昭「日本の暦の歴史」、伊東和彦「暦の内容」『暦を知る事典』(東京堂出版、2006年)69-71頁、116-118頁
史料情報
- 表題:武州小川町 紙荒物 新井茂三郎[引札]
- 明治25年11月/日印刷出版、印刷兼発行者・横山良八
- 埼玉県立文書館寄託 小室家4825
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引札暦
新暦(太陽暦)
旧暦(太陰暦)
16.旧暦の大小