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吉田市右衛門5

江戸後期 自然災害による人口減少

史料

自然災害による人口減_吉田市右衛門5 

※無断転載禁止

問題

下奈良村の家数は、宝暦年中と比べてどのくらい減ってしまったでしょうか。史料から紐解いてみましょう。

解読文

原文(左頁)

百姓一統困窮仕罷在、村方ニ付家数之義も宝暦年中百六拾軒余も御座候処、追々相減極困窮ニ而可也ニ茂、取続罷在候もの迄差加江、漸々百軒余ニ相成申候

村高千弐百六拾六石四斗弐升五合、田畑も次第困窮、人少ニ付作余、自然与手入等も不行届、追々村方困窮仕候、且又四方寺村之儀者、村高三百拾六石六斗、家数当村拾三軒ニ相減、中々以田畑手

読み下し文

百姓一統困窮仕りまかりあり候、村方に付き家数の義も宝暦年中百六拾軒余も御座候ところ、追々相減り極困窮にて、なるべくにも取り続きまかりあり候ものまで差し加え漸々百軒余に相成申し候

村高千弐百六拾六石四斗弐升五合、田畑も次第困窮、人少しに付き作余り自然と手入れ等も行き届ず、追々村方困窮仕り候、かつまた四方寺村の儀は村高三百拾六石六斗、家数当村拾三軒ニ相減り、なかなか田畑をもって手

現代語訳

(<<下奈良村は百姓一同困窮しております。村は家数宝暦年中(七〇年ほど前)は一六〇軒余りもありましたが、次第に減ってひどく困窮になり、それでもなんとか生活を続けている者まで加えて、ようやく一〇〇軒余になります。

村高は一二六六石四斗二升五合。田畑も次第に困窮、人が少なく作余り自然と手入れ等も行き届ず、次第に村が困窮しました。そのうえ四方寺村では村高三一六石六斗、家数一三軒に減り、どうにも田畑をもって手(入…)

解説

用語

  • 罷在(まかりあり):「あり」「おり」の謙譲語で、あります、おります。
  • :余の旧字体
  • 且又:そのうえまた。

自然災害による人口減少

前項では天明三年(1783)浅間山噴火により、これ以降の下奈良村(埼玉県熊谷市)が困窮の現状を見ました。当頁では家数減少について触れています。

江戸時代の全国の村の平均は、農村戸数四〇~五〇戸、人口は約四〇〇人。かくして一軒あたり九人とします。下奈良村は一六〇軒から一〇〇軒余減少、これにより人口はおよそ一四四〇人から九〇〇人減少したと考えられます。則ち宝暦年中(七〇年ほど前)より、家数または人口が四割も減少してしまいました。

四方寺村は、家数一三軒にまで落ち込みとあり、則ち人口およそ一二〇人。宝暦のころより四割減と想定すると、もともと家数二〇軒、二〇〇人くらいはあったようです。浅間山噴火の影響は思いのほか大きいと言えるでしょう。

史料情報

  • 表題:記録二
  • 年代:文政11.10./出所:吉田市右衛門
  • 埼玉県立文書館所蔵 吉田(市)家7
  • 当サイトは同館から掲載許可を頂いてます。
  • ※無断転載を禁止します。

吉田市右衛門

1.吉田市右衛門とは 2.文書概要 3.村の由緒 4.父の事業

5.人口減少 6.父の遺言 7.水害の影響 8.幕府へ貸付

9.水害村救済 10.結びの言葉 11.差出人と宛名

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