相給(あいきゅう)とは
江戸時代 埼玉県狭山市内の例
3.(入間川村)は、給数の多い割に各領主は変化してないようです。上記は同市の村の一例で、多い場合は七給(高麗郡笹井(ささい)村)に及ぶも、給数の多い村では石高の多い古村が多かったようです。
背景
旗本家の成立当初は、小規模の石高であったり、蔵米取(くらまいとり)の場合がありました。江戸幕府は、こうした旗本家に対して石高を加増したり、地方を知行(領地)として与える地方直し(じかたなおし)という政策を行いました。寛永と元禄の両度に幕府が行った地方直しが特に有名です。
寛永の地方直し
寛永一〇年(一六三三)二月、三代将軍家光の時は、一〇〇〇石以下の三番方(大番・書院番・小姓組番)に二〇〇石の加増と併せて蔵米取に対する地方直しが行われました。その目的は、旗本の窮乏対策の意味もありましたが、旗本軍役体系(同年同月 寛永の軍役令)に対応する番方組織の再編強化にありました。
この時に宛がわれた知行所は、武蔵国を中心に関東八か国と伊豆国(静岡県)が対象。これにより常陸国(茨城県)や上野国(群馬県)・下野国(栃木県)などにも旗本知行所が拡大、その分散化が進みました。
元禄の地方直し
元禄一〇年(一六九七)七月、五代将軍綱吉の時は、五〇〇俵以上の蔵米取の旗本・御家人に知行所を与えるための地方直し政策が立案されました。
内容は、江戸より一〇里(約40km)以遠に知行所を宛がう、その際に一村を五、六給以上に分割しないことなど。さらに元禄地方直しの特徴として均等分給があります。
たとえば、三家の旗本家に対して同じ一か村を知行所として宛がい、その一か村を三家で均等に分割。武州男衾郡板井村(埼玉県熊谷市)の場合、寛政八年(1796)以降、旗本長塩氏・牛奥氏・亀井氏知行の三給と天領という複雑な支配で幕末に至りました。
江戸幕府の地方直し政策によって、旗本家の知行所の多くは複数の国や郡の遠隔地に分散されるとともに、数人が一か村を支配するという「相給の知行形態」となりました。
支配形態
名主の数
名主(庄屋)は、一村一人が通例。しかし相給村の場合、領主の数だけ名主がおかれ、その中から大名主(大庄屋)が選ばれて村を代表しました。
また、分散した知行所に対しては、旗本家との村の間に中間支配機構を設置して支配の合理化を図りました。
知行分布
一村内相給主数人の知行田畑は、絣(かすり)模様のように分散し、給主一人一人についてまとまった一地区を形成してはいませんでした。
村方では土地を区切るのではなく、農家を領主に付属させているので地図に示すのも難しいです。然しながら大名・旗本はきほん、その知行所の百姓から直接に自分の手で年貢を受け取っていました。
上知令
江戸中後期になると、日本に外国船が多々来航。対外的危機に備え、老中・水野忠邦による天保の改革において上知令(あげちれい)が施行され、幕府が江戸・大阪周辺約一〇里以内の大名領等を没収しました。
江戸・大阪周辺は相給村が多く、治安上不安があったからです。しかし上知令は大名から町人・百姓らの反発があり、老中・水野忠邦の失脚と共に中止されました。
参考文献
- 上杉允彦「第二章 領主支配の成立と状況_第四編 近世」『狭山市史 通史編1』(狭山市、1996年)407-417頁
- 野本禎司「旗本と知行所‐武蔵国を中心に‐」『特別展 武蔵国の旗本』(埼玉県立歴史と民俗の博物館、2020年)96‐99頁
- 「飯島家文書」『諸家文書目録1(近世史料所在調査報告8)』(埼玉県立文書館、1984年)121頁
- 「近世 板井村」『角川日本地名大辞典11 埼玉県』(角川書店、1991年)108頁
- 「第四章 知行」新見吉治『旗本(日本歴史叢書新装版)』(吉川弘文館、1995年)92頁
- 秋山高志・前村松夫・北見俊夫・若尾俊平 編『図録 農民生活史事典』(柏書房、1991年)「相給」30頁