相給(あいきゅう)とは
1.概要
例えば江戸時代、武蔵国入間郡の村(埼玉県狭山市)では、幕府だけの支配を受ける場合は一給、幕府ほか川越藩の支配が加わると二給、これに旗本知行が加わると三給、且つまた別の旗本知行が加わると四給、五給となりました。
相給村は珍しいことではなく、旗本知行所が集中する関東や近畿・中部地方に多く分布。幕府から支給される俸禄が旗本の場合、俸禄米ではなく領地のためです。
2.三給村の例
当サイトでは、武州男衾郡板井村(埼玉県熊谷市)に残されている証文等を多々取り上げています。当村は、はじめ幕府領、寛政一〇年より旗本長塩氏、牛奥氏、亀井氏知行の三給村となり幕末に至ります。
長塩氏の名は年貢定免請状(万延二)や五人組帳(文政一二)に、牛奥氏の名は人別送り状(嘉永二)、亀井氏は済口証文(嘉永元)に見られます。
3.名主の数
さて、板井村の名主は代々平重郎(時に平兵衛)一人です。原則一つの村に名主は一人。三給だからといって名主が三人いるわけではありません。しかし領主別に名主を置いている所もあります。
4.知行分布
一村内相給主数人の知行田畑は、絣(かすり)模様のように分散し、給付一人一人についてまとまった一地区を形成してはいませんでした。
村方では土地を区切るのではなく、農家を領主に付属させているので地図に示すのも難しいです。然しながら大名・旗本はきほん、その知行所の百姓から直接に自分の手で年貢を受け取っていました。
5.上知令
江戸中後期になると、日本に外国船が多々来航。対外的危機に備え、老中・水野忠邦による天保の改革において上知令(あげちれい)が施行され、幕府が江戸・大阪周辺約一〇里以内の大名領等を没収しました。
江戸・大阪周辺は相給村が多く、治安上不安があったからです。しかし上知令は大名から町人・百姓らの反発があり、老中・水野忠邦の失脚と共に中止されました。
参考文献
- 新見吉治『旗本(日本歴史叢書新装版)』(吉川弘文館、1995年)
- 「近世 板井村」『角川日本地名大辞典11 埼玉県』(角川書店、1991年)108頁
- 秋山高志、前村松夫、北見俊夫、若尾俊平 編『図録 農民生活史事典』(柏書房、1991年)