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江戸幕府の政治8

八王子千人同心とは 歴史・身分・組織、新選組と関係

目次

概要前史日光火の番とは身分組織

幕末役目の変遷新選組との関係

参考文献江戸幕府の政治関連記事

概要

八王子千人同心(以下千人同心)は、元武田氏の家臣。武田氏滅亡後は徳川家康に召し抱えられ、軍事面で支えました。家光死後は軍事動員がなくなり、日光火の番を主な任務としました。身分はあくまで百姓でしたが、幕末に入ると幕府直属軍として再び軍事面で支えました。

前史

元武田家臣

元武田氏の小人頭(こびとかしら/監査役)九人が、武田氏滅亡後に甲斐を治めていた徳川家康に召し抱えられました。同心(下級役人)二五〇人ほど預かり、秀吉との小牧・長久手の戦いに出陣。

北条氏滅亡後、残党が跋扈し、用心のため小人頭は八王子に赴き不慮に備えました。主家を失った武士をかき集めて関ヶ原、大坂の冬の陣、夏の陣にも出陣。

元武田家臣で代官頭の大久保長安は、政治的拠点の八王子に陣屋を構えました。長安の配下の者たちは元武田家臣が多く、また千人同心も長安に属して、代官陣屋の警護し武力面で助けました。

日光火の番とは

宝永元年(1704)、八王子に集中していた代官陣屋が廃止。また徳川家光死後は軍事動員がなくなり、千人同心の役目は日光東照宮の警護すなわち日光火の番となりました。日光火の番は、千人頭一人、千人同心四五人で半年交代。すなわち一〇年に一度回ってくる役目です。

また薄給により農業、周辺との百姓との結婚、千人同心が百姓化が進みました。逆に譜代の士になりたい人もいて、力を付けた百姓が千人同心株を買って千人同心になることがありました。

身分

千人同心は人別帳(戸籍)に苗字を書くことが許されず、身分はあくまで農民(百姓)でした。然しながら刀を差すことができ、幕末になると内憂外患が深刻になり、鉄砲を持たされ鉄砲の稽古にも励みました。

尾張藩御預御案内役と同じく江戸時代には、武士と農民の中間に属す人々がいました。

組織

江戸時代後期の組織は下記のとおりです。

老中>>鑓奉行(江戸後期 享保二〇年より)>>千人頭(一〇人/旗本知行地)>>千人同心(九〇〇人/組頭(一〇〇人)>>世話役(一〇〇人)>>平同心(七〇〇人)

幕末

外国船が日本に来航し、外憂内患を深めると、千人同心は下記変遷が示すように幕府を軍事面から支える何でも屋のようになっていきました。第二次長州征伐に出陣した際には死者も出ました。

千人同心 役目の変遷

  • 徳川家光(1604~1651)死後軍事動員がなくなる。
  • 日光火の番(承応(じょうおう)元(明暦の前)1652~)~
  • 江戸地の警衛や北辺の開発(19世紀(文化・文政以降)~
  • 将軍の上洛供奉(ぐぶ)文久3年(1863年)三〇〇〇人のうち千人同心六一四人
  • 第一次横浜警備(同年一〇月~翌四年二月)
  • 水戸天狗党(水戸藩における尊王攘夷の急進派)から甲州を警護(元治元年(1864)一一月~一二月)千人頭八名、千人同心は見習い含め八六四名(日光火の番以外全員)。
  • 第二次長州征伐に広島遠征(慶応二年1866)千人同心四三二人出兵、うち三〇人以上死去

新選組との関係

剣術の一派である天然理心流(てんねんりしんりゅう)宗家近藤家の初代内蔵之助(くらのすけ)は浪人でした。二代三助は千人同心組頭で、寛政の改革によって千人同心の武術奨励につき、千人同心にも武術を教えました。

三代周助が近藤勇を養子に迎えました。勇は中農(調布市)の家の子で、のちに近藤家を継いで浪人で百姓から武士となりました。土方歳三は日野市の富農の出です。

千人同心は武士身分として容認されるなか、幕府の銃卒となりました。新選組は主体性があり、百姓の抵抗意識としての武士意識を持っていました。それはまるでかつての千人同心の姿のようでもありました。

  

参考文献

江戸幕府の政治

1.人口/2.武士の俸禄/3.年貢米の納め方/4.相給とは/5.旗本とは

6.村の基礎データ/7.宿駅のしくみ/8.八王子千人同心とは

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/2020年3月2日 公開