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概要
八王子千人同心(以下千人同心)は、八王子市民に限らずその周辺、すなわち尾張藩鷹場=東京都多摩地方・埼玉県西部に住む人にとっても身近な存在。なんてことは令和にあってはありませんが、江戸時代のこの辺の郷土史を紐解けば、高確率で出くわすのが千人同心という謎の職分の人々です。
千人同心は元武田氏の家臣。武田氏滅亡後は徳川家康に召し抱えられ、軍事面で支えました。家光死後は軍事動員がなくなり、日光火の番を主な任務としました。身分はあくまで百姓でしたが、幕末に入ると幕府直属軍として再び軍事面で支えました。
前史
元武田家臣
元武田氏の小人頭(こびとかしら/監査役)九人が、武田氏滅亡後に甲斐を治めていた徳川家康に召し抱えられました。同心(下級役人)二五〇人ほど預かり、小牧・長久手の戦い(VS秀吉)に出陣。
北条氏滅亡後、残党が跋扈し、用心のため小人頭は八王子に赴き不慮に備えました。主家を失った武士をかき集めて関ヶ原、大坂の冬の陣・夏の陣にも出陣。
元武田家臣で代官頭の大久保長安は、政治的拠点の八王子に陣屋を構えました。長安の配下の者たちは元武田家臣が多く、また千人同心も長安に属して、代官陣屋の警護し武力面で助けました。
日光火の番とは
宝永元年(1704)、八王子に集中していた代官陣屋が廃止。また徳川家光死後は軍事動員がなくなり、千人同心の役目は日光東照宮の警護すなわち日光火の番となりました。日光火の番は、千人頭一人、千人同心四五人で半年交代。すなわち一〇年に一度回ってくる役目です。
また薄給により農業を営んだり周辺との百姓と結婚するなど、千人同心が百姓化が進みました。逆に譜代の士になりたい人もいて、力を付けた百姓が千人同心株を買って千人同心になることがありました。
身分
千人同心は宗門人別帳(戸籍)に苗字を書くことが許されず、身分はあくまで農民(百姓)でした。然しながら刀を差すことができ、幕末になると内憂外患が深刻になり、鉄砲を持たされ鉄砲の稽古にも励みました。
士農工商と言われますが、千人同心はじめ尾張藩御預御案内役など武士と農民の中間に属す人々がいました。
組織
江戸時代後期の組織は以下のとおり。
老中>>鑓奉行(江戸後期 享保二〇年より)>>千人頭(一〇人/旗本・知行地)>>千人同心(九〇〇人/組頭(一〇〇人)>>世話役(一〇〇人)>>平同心(七〇〇人)
幕末
外国船が日本に来航し外憂内患を深めると、千人同心は下記変遷が示すように幕府を軍事面から支える何でも屋のようになっていきました。第二次長州征伐に出陣した際には死者も出ました。
千人同心 役目の変遷
新選組との関係
剣術の一派・天然理心流(てんねんりしんりゅう)宗家近藤家の初代内蔵之助(くらのすけ)は浪人でした。二代三助は千人同心組頭で、寛政の改革によって千人同心の武術奨励につき、千人同心にも武術を教えました。
三代周助が近藤勇を養子に迎えました。勇は現・調布市の中農の家の子で、のちに近藤家を継いで浪人で百姓から武士となりました。土方歳三は現・日野市の富農の出です。
千人同心は武士身分として容認されるなか、幕府の銃卒となりました。銃卒になるのは結構ですが、千人同心や新選組のいる東京都多摩地方というのは尾張藩鷹場で、ここは鷹場法度第五条により鉄砲所持は禁じられています。千人同心の鉄炮稽古の史料からは、幕末の外憂内患の一端を窺い知れます。
新選組は主体性があり、百姓の抵抗意識としての武士意識を持っていました。それはまるでかつての千人同心の姿のようでもありました。
参考文献
- 吉岡孝『八王子千人同心』(同成社、2002年)