奉書とは
概要
奉書(ほうしょ)は直状に対し、人の意を奉じて出す書状を総括していいます。御教書、下知状など。現在の封書の源流で、様式は御教書と同じような形式です。
変遷
平安時代
特に三位以上の人の奉書を敬して、御教書といいました。また御教書以外の奉書は、狭義の奉書といえます。
中世:鎌倉時代
御教書や下知状とは別に、幕府の政所・侍所あるいは奉行・引付頭人(ひきつけとうにん:裁判機関・引付衆首席)などが上意を奉じて出すものを、とくに奉書と称しました。
同:室町時代
室町幕府奉書は、奉行・頭人、将軍の内談衆などが、公的の御教書あるいは私的の内書(ないしょ)に添えて出す場合が多いです。
- 将軍家御教書:公的。管領が上位を奉じて出す。(末文)被仰下
- 御判(ごはんの)御教書:公的。将軍の署判があり、様式の上では直状[註]。(書止)状如件
- 御内書(ごないしょ):私的。将軍から下した内密の書状。直状形式で、御判御教書よりいっそう書状に近い様式。通例将軍の侍臣(じしん)が副状(そえじょう)をつける。(書止)也
同:戦国時代
近世:江戸時代
執達状
執達状(しったつじょう)は、御教書の俗称。由来は、書止めに「依仰執達如件」(おおせより、しったつくだんのごとし)などとあるため。執達(しったつ)とは、上意を受けて下に通達すること。
例:室町幕府奉行人連署奉書
当寺領、山城国柳原一橋 最勝光院敷地事
…(本文略)…所被仰下也、仍執達如件
//文明十四年十二月廿九日 対馬守(松田数秀)(花押)
///////////// 下野守(布施秀基)(花押)
///東寺雑掌
(東寺百合文書ホ函、京都府立総合資料館所蔵)
読み下し文
当寺領、山城国柳原一橋(最勝光院敷地)の事…仰せ下さる所なり、仍って執達くだんの如し、文明(戦国時代)十四年(1482年)十二月廿九日(以下略)
文書の背景と経緯
- 前将軍足利義政の東山山荘の造営費や人夫(にんぷ)は、寺社本所領に例外なく賦課された。
- 東福寺は柳原一橋の地を自分の寺領とみて、幕府から命ぜられた造営費を掛ける。
- この地の住民は、ここは東寺最勝光院敷地であって、東福寺の賦課に応じず。
- 東福寺がいきなり住民の家屋を検封(けんぷう:中世、犯罪人の住宅を封印すること。)。
- 幕府が恐らく東寺からの訴えに基づいて、東福寺に検封を解くよう命ずるも応じず。
- 東福寺、将軍の命令違反によって、係争の地は東寺の一円支配を認める。
- 雑掌(ざっしょう):古代から中世にかけ、官庁・幕府・荘園などに雇われ、年貢の取り立てや家の兼業、雑務などをした者。
補註
御判御教書と称したのは、御教書が本来、奉書形式文書だった歴史がおざなりになり、将軍の発給文書に対する敬称の意味に転用されたと考えられる。[文献3 168頁]
参考文献
古文書の様式
1.概要 2.詔書・勅書、太政官符など