下知状とは
下知状(げじじょう)は、鎌倉幕府成立後に発生した新式の、武家の命令書。下文と御教書を折衷した文書様で、書き止め「下知如件」(げじくだんのごとし)と結んでいるところから下知状と称されます。
特徴
- 呼び方:はっきり下知状と称するのは鎌倉時代以後から。
- 歴史:のちに書出しの「下」のない下知状の形式が一般化。頼朝のときからあり、執権時代から整備され実例も多くなった。
- 宛所:(下知状は下文から出たものだから)最初か文中。日付の後に書かれることはない。/下し先はおもに幕府直属の御家人
- 差出書:日付と別行
- 書止:下知如件
- 内容:中世の現存する大半は訴訟の裁決。判決を与えることを裁許という。判決文を裁許状といい、裁許状の様式は様式的に下知状。
- 種類:下知状にも関東・六波羅・九州探題等の別あり。
例:関東下知状
鹿嶋大禰宜朝親与野本四郎左衛門尉 法師法名・行心
相論当社領大枝郷事
…(本文略)… 依鎌倉殿仰下知如件
///永仁六年二月三日
////////陸奥守平朝臣(花押)
////////相模守平朝臣(花押)
(鹿島大禰宜家文書、鹿島神宮文書第一輯による)
読み下し文
鹿嶋大禰宜(かしまおおねぎ:鹿島神宮神官)朝親と野本四郎左衛門尉 法師(ほっし:僧)法名(ほうみょう)・行心、相論する当社領大枝郷の事、…(本文略)… 鎌倉殿仰せに依って下知くだんの如し、永仁(えいにん:鎌倉後期)六年(1298)二月三日、陸奥守平朝臣(北条宣時花押)、相模守平朝臣(北条貞時花押)
解説
裁許状では最初に要旨が述べられ、書き方は以下のとおり。
- 何某(原告)与何某(被告)相論某地事、何某訴申何某何々事
幕府は結論だけ述べず、両者主張の取捨の理由、適用法規を簡単に示し長文になる傾向です。
頼朝によって諸国の荘園(私的な領有地)村里に地頭が設置されると、在来領主や本所領家の荘官たちの間に所領支配の争いが勃発。かくして地頭が大禰宜分の地を侵害したので、大禰宜が訴えました。
この相論では六〇年前に嘉禎(かてい:鎌倉中期)三年(1237)に両方和解のうえで土地分割を施行。幕府は嘉禎の和解状の通りにせよと判決しました。
その後
鎌倉幕府滅亡後も下知状は武家文書として広く使用され、足利直義裁許状、室町幕府執事、管領署判の下知状、複数の奉行人連署の下知状などがありました[註]。
参考文献
古文書の様式
1.概要 2.詔書・勅書、太政官符など
補註:幕末の下知状
ペリー来航後、幕府は大名・旗本らに対し武器御調達を命令。この費用の工面すべく、主人(長塩隼人)を奉じてその家臣が、知行所(板井村)の名主に下知状を出している(丑年(嘉永六)九月二日付 埼玉県立文書館所蔵 飯島家554)。