はしかの歴史
史料原文要約
日本書紀~戦国時代
- 敏達(びだつ)天皇[538~585]四〇年:この病始まり上は百官、下万民まで死傷多し。
- 天平七年[735]:聖武天皇朝、疱瘡(ほうそう)初めて流行。
- 同九年[737]:麻疹(はしか)初めて流行。
- 五四年後:延暦九年[790]桓武天皇朝、流行。
- 二一九年後:長徳四年[998]流行。
- 四七四年後:文明三年[1471]流行。年数遥かなれば麻疹流行るとも知らず、病たる人多く有るべし。
- 三七年後:永正四年[1507]流行。
江戸時代
解説
史料は一見、何の変哲もない、よくあるはしか絵に見えますが、はしか流行の歴史がこと細かに記されているのがわかります。余りに細かいので要約を上記、原文は下記に掲載しました。
史料によれば、日本において疱瘡や麻疹は古くからあったようで、数百年置きの流行でした。しかし戦国あたりから百年、江戸に入り四〇年、中後期には二、三〇年で流行していることがわかります。歴史に学ぶ大切さを改めて教えてもらったように感じます。
描かれているのは女性で、赤い単衣(ひとえ)に身に着け、髪は赤の飾りで束ね、温かくして読書しながら養生。文書と絵、ともに品のいいはしか絵です。
原文(解読文)
麻疹養生伝(はしかやうじやうでん)
[史料画中] 此三字(このさんじ)を書(かい)て、家(いへ)のうちに貼(はり)おけば、きはめてはしかかろし、故にこの画中(くわいちう)にしるす、西国(さいこく)にては、昔(むかし)よりこの符(ふ)によりてこれをまぬかれ、又はかろくする事と大云
日本書紀(しよき)に曰(いわ)く、敏達天皇(びだつ てんわう)四十年、此症(やまひ)はじまり、上(かみ)は百官(ひやくくわん)下万民(しもばんみん)に至(いたる)まで、死傷(ししやう)多(おほ)しと云
或書(あるしよ)に疱瘡(ほうそう)は聖武天皇(しやうむてんわう)天平(てんへい)七年はじめて流行(りうかう)し、麻疹(はしか)は同九年にはじめてはやる
そののち桓武帝(くわんむてい)延暦(えんりやく)九年まで、其間(そのあひだ)五十四年めにして流行(りうかう)し、又二百十九年め長徳(ちやうとく)四年に流行(はや)り、また四百七十四年めにあたり文明(ぶんめい)三年に流行(りうかう)す
年数(ねんすう)遥遠(はるか)なれば、さだめて其内(そのうち)に麻疹(はしか)はやるともしらず、病(やむ)たる人(ひと)多(おほ)く有(ある)べし
文明(ぶんめい)より、三七年め永正(えいしやう)四年にまたおこなはれ、そのゝち百四十四年め慶安(けいあん)三年にはやり、また四十二年めにして流行し、是(これ)元禄(げんろく)三年なり
又四十め享保(きやうほう)十五年めにはやり、二十四年の後(のち)宝暦(ほうれき)三年流行、また二十年め、安永(あんえい)五年おこなはれ、そのゝち、二十八年め享和(きやうわ)三年にはやり、
凡、天平より享和まで一千七十六年の間、数度の流行にして、しかも生涯一度病て二度病ことなきは一つの異なり、享和より二十二年め天保七申年流行、夫より廿七年目にて當戌年海内(かいだい)に流行す
食(しよく)して宜(よろ)しきもの
一 やき塩(しお)、一 かんぴやう、一 ほし大根(こん)、一 ゆりの根(ね)、一 にんじん、一 かたくり、一 古みそづけ、一 上葛(くず)、一 くろ豆(まめ)、一 氷(こほり)こんにやく、一 越瓜(しろうり)、一 冬瓜(とうがん)、一 隠元豆(いんげんまめ)、一 十六さゝげ、一 鹿角菜(かじき)、一 小豆(あづき)、一 やえなり、一 水飴(あめ)、一 白雪羹(はくせつこう)、一 麩(ふ)、酒はあし、一 鮑(あわび)、酢□□はあし
史料情報
- 表題:麻疹養生伝(はしか絵)
- 年代:文久2. 4(1862) /五雲斎貞秀 画、両国大平 板
- 埼玉県立文書館寄託 小室家文書6369-3
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