解読文
原文
女弐人、内小女壱人、乗物壱挺、従江戸上野国館林迄差遣申候、新郷川俣御関所無相違罷通候様、御手判可被下候、右者拙者家来・吉田左一右衛門与申者之娘、山田弁七与申者之娘二而御座候、若此女共二付、以来出入之儀、致出来候者、拙者方江可被仰聞候、為後日証文仍如件
文政十二己丑年十一月/松平右近将監/曲淵甲斐守殿、柳沢佐渡守殿、石川左近将監殿、佐藤美濃守殿
>>読み下し文
現代語訳
女二人の内、年若い女一人、乗り物一挺、江戸より上野国(こうずけのくに)館林まで差し向けます。新郷川俣御関所(埼玉県羽生市)に間違いなく通していただけますよう、御手形をお与えください。
右は拙者の家来・吉田左一右衛門と申す者の娘、(および)山田弁七と申す者の娘でございます。もしこの女どもに付き、このあと出入りが成し遂げられましたら拙者方へ言ってお聞かせください。後日の(証拠の)ため通行手形はこの通りです。
文政十二己丑年(1829,江戸後期)十一月 松平右近将監(上野館林藩三代藩主・松平斉厚)より/曲淵甲斐守殿・柳沢佐渡守殿・石川左近将監殿・佐藤美濃守殿(江戸留守居役たち)へ
女手形とは
前頁で見た男性の手形は、通行(関所)手形の携帯義務がなく、簡単な取り調べを受けるだけで関所を通ることができました。
これに対して女性が関所を通るときは、現在のパスポートにあたる通行手形を携帯する必要がありました。大名の妻子が庶民の女性に偽装する場合も考えられたからです。江戸を起点として、江戸から遠い方向に向かう場合、幕府の江戸留守居役による許可が必要で、身元・人数・乗物使用の有無などが記載されました。
関所では手形に記載された事項との照合が厳重に行われ、僅かな違いがあれば通行が許されませんでした。しかし小女(こおんな:当歳から振袖まで。一五,六歳以下の女)は不審の体がなければ改められませんでした。
読み下し文
女二人、内小女(こおんな)一人、乗り物壱挺、江戸より上野国館林まで差し遣わし申し候、新郷川俣御関所相違なくまかり通りそうろうよう、御手判(ごてはん)下さるべく候、右は拙者家来・吉田左一右衛門と申す者の娘、山田弁七と申す者の娘にて御座候、もしこの女どもに付き、以来出入りの儀、出来致し候は、拙者方へ仰せ聞けられべく候。後日の為、よってくだんの如し(以下解読文に同じ)
史料情報
- 表題:[通行手形]
- 埼玉県立文書館所蔵 船川家1340
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参考文献
- 埼玉県立歴史と民族の博物館『特別展 にっぽん歴史街道 江戸の街道~絵図でたどる宿場と関所~展示図録』(同館、2014年)
- 日本歴史学会『演習古文書選(近世編)』(吉川弘文館 、1992年)