五人組とは
1.概要
江戸時代の村において、村役人である名主・組頭・百姓代の下に続くのが五人組です。五人組はきほん、村内にある各家五戸の男性家長で組織されます。
2.歴史
五人組は、慶長二年(1597)年三月の豊臣秀吉の掟に始まり、侍は五人組、下人は十人組を組織させました。同一三年一〇月に藤堂高虎は、新封地内(伊予国)に発した政令で、農民を十人組に組織させました。
すなわち新領民を支配統制するために、これを利用していることは注意すべきものです。十人組は、内容や目的が五人組制度と同一により五人組と同じに考えて差支えないです。
3.組み分けの仕方
幕府や諸藩の大名たちである支配者側の多くは、村役人を除く最寄の家で組み合わせ、百姓の大小を考えて組ませました。金持ち一人、貧乏人一人、その間に中間三人といった具合に。
また仲の良いものや、親類ばかりを組み合わせないよう工夫をこらしました。長を五人組頭といい、農民にとって名誉職で、これになることを望みました。
4.目的や役割
五人組の目的は年貢納入で、これにより相互検察や連帯責任が発生します。
悪者、キリシタンはいないかを監視し、また欠落(逃亡)する人が出ないように注意します。また病人があって耕作ができない時はお互い助け合って、年貢を不納することがないように務めます。相互扶助の側面がないこともないですが、あくまで手段であり目的ではありません。
これはこの時代の我が国特有の発想というより前例があって、既に『孟子』(勝文公章句上)に井田法(せいでんほう)と呼ばれる田制に見られます。
井田法を行えば「盗賊の防御・見張も共同ででき、病気の互い助け合うというふうになって、自然、庶民は親睦するようになります。」しかし孟子の井田法にしても、目的はあくまで「自ら賦(ふ)せしめん」則ち上納させることにあります。ちなみに江戸幕府は朱子学を採用、これを修める者、『孟子』は必読の書です。
なおキリシタンについては五人組というより、各村の旦那寺における宗門人別帳によって統制されています。
5.五人組帳
五人組の掟は、各村に残されている『五人組帳』に記されています。耕作の助け合いについては、
左記史料現代語訳第九条、失踪者については第一三条などを見ていただければ、事実確認できると思います。また、村の治安維持に関しては変死体の処理の史料も併せてご参考ください。
参考文献
- 児玉幸多『近世農民生活史』(吉川弘文館、2006年 )「連帯責任制度_四 農民の統制」208-218頁
- 宇野精一『全釈漢文大系 第二巻 孟子』(集英社、1973年 )「勝文公章句 上」169-176頁